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ロッキード事件当時の日本では、三木武夫首相をはじめ、政治家もメディアも一斉に「真相解明」の声を上げたかに見えた。だが、現実はそうでもなかった。

当時の自民党幹事長、中曽根康弘はほぼ「ノーコメント」で通した、と当時前尾繁三郎衆院議長秘書だった平野貞夫(後に参院議員)は振り返っている(注1)。

与党を預かる中曽根幹事長は、表面的には、しっかり三木首相とスクラムを組んでいたように見えた。しかし舞台裏では、ロッキード事件への対応で三木とは立場が違っていたのだ。「クリーン三木」は断固、事件を徹底解明する立場で、田中との最後の闘いに取り組もうとしていた。

他方、当時児玉の秘書をしていた太刀川恒夫は、かつて中曽根の書生をしており、中曽根と「家族ぐるみの付き合い」をしていた(注2)。

それだけではない。1972年当時のロッキード社社長、コーチャンは新型旅客機トライスターの売り込み工作が危機に瀕した時、児玉を通じて中曽根に加勢を依頼していた。

ロッキード事件は表面化した当初から、田中角栄の名前が公然と取り沙汰されていたわけではなかった。最初に焦点が当たったのは、黒幕の児玉誉士夫だ。中曽根と児玉の関係は、かねて噂になるほど近かったので、当然中曽根も疑われていた。

中曽根は、事件表面化の直後から「真相解明」に消極的だった。米外交文書にその事実が記録されている。

事件が朝日新聞で報じられた翌日の1976年2月6日、かねての約束で、在日米大使館を表敬訪問し、来日中のウィリアム・シャーマン国務省日本部長と面談した。

その中で、中曽根は「ロッキード事件は年内に行われる総選挙の時期に悪影響を与える可能性が大きい。国内で捜査するのはいいかもしれないが、諸外国を巻き込むのは問題が違う。注意深く検討すべきだ」と、米国の協力を得た捜査に慎重な構えを示した(注3)。

ロッキード事件関係のアメリカ政府文書の中で、その内容に最もドキっとした文書がここにある。当時の自民党幹事長、中曽根康弘アメリカ側に対して「もみ消すことを希望する」と求めた、と記録されていたのだ。

この電報は、1976年2月20日付でジェームズ・ホジソン駐日米大使が宛先に「ハビブ次官補(東アジア太平洋担当)」と特記して、国務長官に送付した(注4)。

この電報は、朝日新聞の奥山俊宏編集委員が2009年8月、最初に発見したと書いている(注5)。特ダネとして朝日新聞が報道したのは約半年後の2010年2月12日付朝刊。筆者が2008年3月にフォード大統領図書館で調査した時には、この公電はまだ機密解除されておらず、入手できていなかった。急ぎ、フォード大統領図書館で手に入れた。

1973年以降の国務省外交電報は、原則的にウエブ上に掲載されているが、この文書は特別扱いされていて、国家安全保障問題担当補佐官(当時ブレント・スコウクロフト)の文書ファイルに保管されていた。格付けは「シークレット」で、「トップシークレット」の下、「コンフィデンシャル」の上だ。

通常の外交公電ではなく、補佐官用の情報として抜き出し、管理されたとみられる。一種の「取扱注意」の機密公電だった。

この電報では、中曽根が前々日の2月18日とその翌日19日に、在京米大使館員に話した内容が報告されている。2日間続けて米大使館員に接触、2日目に前日の発言の取り消しを求めた形となっている。

18日に、中曽根は自分が話すことは「自民党幹事長」としての発言であって、個人的な話ではない、と断って、同日に三木首相が党および閣僚らと相談した上で、日本政府高官名が入ったロッキード事件文書の提供を米国に求める、と決定したことについて、本当は「PAINFUL(KURUSHII)」政策だと説明した。日本語が分かる専門家に向けて、「苦しい」という、中曽根が話したとみられる言葉をあえてローマ字で記している。

なぜなら、現時点で名前のリストが公表されたら、「日本の政界は『大混乱状態に陥り』、自民党は事態をコントロールできなくなる」。だから「米国は文書公開を可能な限り遅らせることがベストだ」と、中曽根は述べた。

しかし、翌19日の朝に語ったことは少し違っていた。実は商社の日綿実業本社を通じて、すっぱ抜きで有名なコラムニスト、ジャック・アンダーソンのスタッフから得た情報として、田中と大平の名前が出ている、というのだ。

そのことは三木にも伝えたが、これらの名前が公表されると、内閣は崩壊し、自民党は選挙で「完敗」し、自民党は政局を乗り切れず、恐らく日米安保体制の瓦解を招く、というのが三木の判断だ、と語った。

ジャック・アンダーソンは筆者の外信記者時代はすっぱ抜きで有名で、常に注目されるジャーナリストだった。そんな人のスタッフが、特ダネ情報を報道する前に日本の商社員に明らかにすることは通常あり得ない。確実な情報なら、入手した段階で裏を取り、すぐ報道する。現実には、あやふやな危い情報を日本人に当ててみた、というのが真実だろう。

いずれにせよ、中曽根は19日に、前日の18日に伝えた中曽根から米政府へのメッセージを次のように変更してほしいと述べた。

「米政府はこの問題を注意深く考えてほしい。米政府がこの問題をHUSH UP(もみ消す)することを希望する」

HUSH UP はまさに「もみ消す」「秘密裏に処理する」という意味だ。類語のHUSH MONEYは「口止め料」という意味で、いずれも非常に不穏当な感じを与える言葉だ。

この公電で、先に KURUSHII と記した時と同じように、「HUSH UP」に続けて、「(MOMIKESU)」と括弧付きで日本語をローマ字表記で付記している。まさに、中曽根は日本語でそう語ったのですよ、という調子で記述した、真に迫る内容だ。

結局、中曽根から米政府あてのメッセージは、三木首相が提供を求めるロッキード事件の文書について、米国は文書の「公開を可能な限り遅らせる」のではなく、事件自体を「もみ消す」べきだ、に変わったというわけだ。

言い換えれば、日米安保体制の瓦解にもつながるような重大な情報なのでもみ消すべきだ、という趣旨である。

これを自分の個人的意見ではなく、党幹事長としての発言として伝え、重視してほしいと頼んだ形となっている。

こんな中曽根の依頼自体が漏れていれば、当時の「真相解明」を求めて沸騰する国民世論からみて、幹事長は即刻辞任となったであろう。ほとぼりが冷めた後に知られた場合でも、そんなことを言う人物が、後に首相になれる可能性は低くなっていただろう。

一番劇的なシーンは、1972年10月5日、コーチャンが自分の「長い航空機会社生活の中でも、最大の危機に見舞われた日」に起きたエピソードだ(注2)。コーチャンは自分の回想録のほか、嘱託尋問でもこのことを証言している(注3)。証拠採用された例の「工作日記」にも、この時の経緯を簡単に記している。

中曽根のことは暗号で「N」とし、10月5日「友達(児玉)がNに電話をした」、同6日「Nが事態を訂正した」と記している(注4)。

これは、ロッキード社が全日空への売り込みを図っていた旅客機L1011トライスターの注文を失いそうになった時のことである。コーチャン社長は児玉の事務所に駆け込み、太刀川が中曽根に電話をかけ、中曽根が出ると、児玉はコーチャンの依頼を伝えた。

15分以上の長電話を終え、児玉は「中曽根氏が……努力をしてくれると約束しました」と話した。

翌6日、コーチャンは「中曽根氏が〈陰謀〉転覆に成功した」との知らせを受け、最終的に全日空からの発注を確保したというのだ。

それが事実であれば、中曽根はロッキード社の恩人であり、何らかの報酬が支払われた可能性は十分あり得る。

中曽根は、2012年に発行された『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社)で、現代日本政治史の研究者から質問を受けた(注5)。

三木武夫首相のロッキード事件に関する態度について、「スタンドプレーもありました。汚職事件について敢然と立ち向かうという革新的政治家のスタイルを見せたいと思っていたのだろう」と、手厳しく批判している。

三木がアメリカからロッキード事件に関する情報の提供を受けて公開しようとしたことについても、「副総裁の椎名と幹事長の私は、相談して、三木を抑えなければ駄目だという考えを共有しました」と語っている。裏で中曽根は「三木おろし」と通じていたのだ。

しかし、米大使館の公電については、「アメリカ人に対して『もみ消す』なんていう言葉を使うはずがありませんね。私と大使館の間に入った翻訳者がそう表現したのかもしれないが……」と逃げている。

こんな場合、中曽根が日本語で話し、翻訳者は英語に翻訳する。この公電の場合、あえて日本語と英語を併記して、注意深く記述しているところからみて、そんな「言葉を使うはずがない」という中曽根の否定は、説得力を欠いている。米外交文書は、意訳して概略の説明で済ますこともある日本の文書より、通例は事実に即した書き方をしているのだ。

また、キッシンジャーロッキード事件の関係については、「ずいぶん経ってから、キッシンジャーとハワイで会ったときには、彼は『ロッキード事件は間違いだった』と密かに私に言ったことがあります。キッシンジャーは事件の真相について、かなり知っていた様子です」と、中曽根は語っている(注6)。

この発言については、ロッキード事件のどこが「間違い」だとキッシンジャーが言っていたのか、明言していない。そもそもキッシンジャーは、チャーチ上院議員によるCIA秘密工作の暴露や、チャーチ小委のロッキード事件調査に対して強く非難していた。しかし、田中逮捕に至った日本関係の事件捜査に疑問を呈していたわけではない。

それでも、中曽根に対する不信感はくすぶっていた。世論が沸騰していた時期は、隠忍自重、国会の証人喚問も党議を理由に拒否し続けた。しかし、年が明けて1977年4月になると、中曽根は衆議院ロッキード問題調査特別委員会に、自ら申し出て、証人喚問が実現する(注8)。

いずれにせよ、東京地検特捜部が中曽根を立件できなかったのは、L資料、つまりロッキード社資料の中に中曽根の犯罪につながる証拠がなかったからだ。

中曽根は、自分の関与が露見する可能性がある、と恐れたかもしれない。しかし彼は、証拠文書が日本側に提供された丸紅ルートにも、全日空ルートにもつながっていなかった。彼は証拠がない児玉につながる人物であり、「児玉から先の巨悪の闇」の中で守られていた。米側に「モミケス」と宣う必要などなかった。

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東京都は、13日都内で新たに10歳未満から90代までの男女合わせて480人新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。

年代別では、
▽10歳未満が12人、
▽10代が34人、
▽20代が121人、
▽30代が88人、
▽40代が73人、
▽50代が63人、
▽60代が35人、
▽70代が25人、
▽80代が26人、
▽90代が3人です。

1日の感染の確認が400人を超えるのは5日連続で、日曜日の発表人数としては先月29日の418人を上回ってこれまでで最も多くなりました。

13日の480人のうち、およそ46%にあたる220人は、これまでに感染が確認された人の濃厚接触者で、残りのおよそ54%の260人はこれまでのところ感染経路がわかっていないということです。

これで都内で感染が確認されたのは、合わせて4万7225人になりました。

一方、都の基準で集計した13日時点の重症の患者は70人で、ことし5月に緊急事態宣言が解除されたあとでは先月30日と並んで最も多くなりました。

また、13日死亡が確認された人はいませんでした。

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#政界再編・二大政党制