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天ぷらうどん(+玉子)

夕食はポークピカタ、なめこおろし、里芋の味噌汁、ごはん。

渋沢が人生のターニングポイントを迎えるきっかけとなったのが、大隈重信である。パリで江戸幕府の終焉を知った渋沢。帰国後、旧幕臣明治新政府と函館で最後の戦いを繰り広げる中、渋沢は父にこう言っている。

「今さら函館に行って脱走兵に加わる気もありません。また、新政府に媚びを呈して仕官するつもりもありません。これから前将軍の隠棲しておられる静岡へいって、生涯を送ろうと思います」

もともと一橋家に仕えていた渋沢は、駿河の宝台院で蟄居する徳川慶喜のもとを訪ねている。その言葉通りに駿河で生涯を送るべく、「商法会所」を設立するなど民間人としての道を歩み始めた。

そんな渋沢を明治新政府へと引っ張り出したのが、大蔵省で大輔を務めていた大隈重信であった。「大蔵省租税司正」というポストを打診された渋沢は「税の知識がなく、少しも経験がないことだから」と断るが、大隈からこう言われて丸め込まれてしまう。

「何から手を着けてよいかわからないのは、君ばかりではない、みなわからないのである」

どこの馬の骨かもわからない自分のことを大蔵省に抜擢した大隈について、渋沢はこんなことを言っている。

「他人の言葉を聞くよりも、他人に自分の言葉を聞かせるのを主とする御仁である」

まさに、言いくるめられた渋沢が体験したことだが、ほかの人に対してもそうだったらしい。何でも、大隈のところに「物を申してやろう」と面会した者はみな、逆に何か意見を言われて、すごすごと帰ってくるのが常だったようだ。そんな「大隈対策」として、渋沢は大隈と話すとき、必ず先にこう言っておくのだという。

「今日は、かくかくの用件を申し上げるためにせっかく参ったのですから、これだけのことはぜひお聞き取りを願いたい。ご意見のほうは、当方から申し上げることをお聞き取りくだされたうえで、うかがうことにいたしたいから」

これを渋沢に毎回言わせる大隈もなかなかのものである。大隈は途中から横道に話を引き込んで、自分の話を聞かせる達人だったようだ。

これも一つの話術だろう。大隈のような人物と話すときは、相手がべらべらと話すため、ついこちらも心を許しがちである。だが、渋沢はしっかりと人物を見極めており、大隈についてこうも言っている。

「容易に他人の話を聞こうとしないわりに、他人がちょっと話したことを案外よく記憶されている」

大隈は、渋沢が大蔵省を辞めて、銀行を設立するときも、多くの人間が反対する中「大蔵省としても君のような人物が銀行に入って手を尽くしてくれること喜ぶ」と、後押ししている。渋沢の言うように、その話術で自分のペースに巻き込みながらも、相手を深く洞察することに、大隈は長けていたのであろう。

そんな大隈のことを渋沢は「大隈参議だけは、大蔵省の実際の状況をも熟知していた」と、その見識も高く評価していた。

一方、大蔵卿を務めていた大久保利通のことは厳しくこき下ろしている。

「財政の実務に詳しくないどころか、その根本原理さえわかっていない」

渋沢にとって大久保は17歳も年上だったが、「私が嫌いだった人」とはっきり言っており、同時に「私もひどく大久保侯から嫌われた」と書き残している。いったい、2人の間に何があったというのだろうか。

渋沢が大久保と対立したのは、陸軍と海軍の歳費についてである。政府で「陸軍省の歳費額を800万円に、海軍省の歳費額を250万円にする」という提議がなされると、大久保は「やむをえずこれに同意しなければならない」とし、周囲のイエスマンもみな賛同していた。

だが、当時、大丞という職にいた渋沢が待ったをかけている。

「いま政府が軽々しく各省の年間予算を決めるのは、はなはだ不適切なことと存じます」

渋沢としては、年間予算を決めること自体は、むしろ望んでいたこと。ただし、全国の歳入額がまだまったくわかっていなかった。それをできるだけ明確にしてから、予算を各省に振り分けなければならないと、渋沢は大久保に主張した。

渋沢の言い分はもっとものように思うが、なにぶん、明治新政府はスタートして間もない。そんな理想論では何も物事は進まないと、スピード感を重視する大久保はおそらく考えたのだろう。渋沢をこんなふうに詰問している。

「それならば歳入の統計が明瞭になるまでは、陸海軍へは経費を支給しないという考えなのか」

こうして極論に持ち込んで、相手を追い詰めるのもまた大久保らしい。もちろん、渋沢としても、そこまでのことは望んではいない。陸海軍がなければ国を維持できないこともわかっている。けれども、歳入統計がまったくできていない時点で、巨額な年間予算を決めるのは危険なのではないか、と言っているにすぎない。

だが、大久保にしてみれば、渋沢の意見は具体性に欠けると感じたのではないだろうか。「ならば、いつならばよいというのか」「いくらまでの予算ならよいのか」と事を急いてしまう。いつでも一歩でも前進しておきたい大久保と、どんなときも筋はきちんと通したい渋沢とでは、方針が合わなかったのである。

結局、大久保とは意見が対立したまま、渋沢は大蔵省を辞めることを決意。大蔵大輔を務めていた井上馨にこう伝えた。

「私は大久保さんのご機嫌を取りながら勤めることはできません」

井上に慰留されて、一度は思いとどまるものの、思いは変わらずに、渋沢は大蔵省を退官。結果的に、大久保の存在は、渋沢を実業家の道へ進ませるきっかけとなったといえるだろう。

だが、さすが渋沢と思わせるのは、これだけ対立した大久保のことを、のちにこう評していることである。

「私が大久保侯の日常を見ると『君子は器ではない』とは彼のような人をいうのであろうと驚きの気持ちを禁じえなかった」

「君子は器ではない」は「立派な人間は何かの道具にならない」という意味である。これだけ嫌いながらも、渋沢は大久保のことを「君子」としているのである。

これまで渋沢は、どれだけ意見が違う相手であっても、とことん議論することで、局面を打開してきた。頭ごなしに相手の意見を否定さえしなければ、自分の思いは通じるという確信があったし、相手の意見のほうが優れていると思えば、大胆に方針を変えることもいとわなかった。

「こちらが腹を割って話せば、 自分がどういう人物かを相手に理解してもらえるし、相手がどういう人物かもわかる」

それが、いわば渋沢の信念だったといってもよい。

ところが、大久保だけは、これまで会ったどんな人ともまるで違った。未知の人種であり、渋沢は大いに戸惑ったようだ。

「たいていの人はいかに見識が抜きんでていても、おおよそ心で何を思っているのかを外側から窺い知ることができる。ところが大久保侯の場合、どこに彼の真意があるのか、何を胸の底に隠しているのか、私のような不肖者ではとうてい測り知ることができなかった。まったく底の知れない人であった」

さらに、大久保のことを嫌った理由も、その底知れなさにあると、冷静に分析している。

「大久保侯に接すると、何となく気味の悪さを感じてしまうことがあった。大久保侯を何となく嫌な人だ、と私に感じさせたこれが一因なのだと思う」

百戦錬磨の渋沢をも圧倒した大久保。一方で「嫌いだ」という相手をここまで冷静に見つめられる渋沢の人間力にも感服させられる。

大久保のことを嫌ったのは、何も渋沢だけではない。

大久保は冷徹なイメージが強く、どちらかといえば、不人気な政治家である。リアリストという点では、渋沢と共通点があったものの、渋沢が「陽」だったのに対して、大久保は「陰」だった。

もちろん、陰陽と異なる性格がゆえに、バランスがとれることもある。大久保と西郷隆盛がまさにそうだが、渋沢と大久保の場合は、タイプの違いが裏目に出てしまったようだ。

ならば、西郷と渋沢は「陽同士」で相性がよかったのだろうか。

渋沢にとって、忘れられない西郷の言葉があった。それは、各省の権限について、評議会を開いたときのことだ。首脳を務めたのが、大久保、木戸孝允、そして西郷だった。

話題が朝廷の権限にまで及んだときに「三条実美岩倉具視にも出席してもらったほうがよかろう」という話になった。

「三条太政大臣、岩倉右大臣にも出席してもらうようにするか」

木戸がそう提案がすると、西郷は唐突にこうつぶやいた。

「まだ戦争が足りないようにごわすね」

まだ戦争が足りない――。西郷は何を言っているのだろうと、その場の者は誰も理解ができなかった。渋沢も西郷のことをこう思ったのだという。

「西郷は少しウツケだな」

ウツケとはぼんやりした愚か者、ということ。それくらい、西郷の発言は意味不明で、場違いのものであった。

だが、しばらくして、西郷の言葉に込められた真意を知り、渋沢はその深遠な見通しに驚愕することになるのである。

#食事#おやつ