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1973年、当時の田中総理大臣とソビエトのブレジネフ書記長は、モスクワで首脳会談を行いましたが、ソビエト側は、北方領土の帰属の問題などには踏み込まず、日本側にとって厳しい交渉だったとされています。

しかし、ソビエト政府は、会談を前に北方領土問題をめぐって具体的な提案を検討していたことがロシアの国立公文書館で見つかったソビエトの外交機密文書で明らかになりました。

それによりますと、ソビエトは「1956年の日ソ共同宣言の規定を実行し、歯舞群島色丹島の引き渡しを定める項目を条約に含めることに合意できる」として2島の引き渡しを「第1の立場」としています。

さらに、日本がこれを受け入れない場合を想定し「予備の立場」として2島の引き渡しに加え、国後島択捉島について日本の漁船が寄港する権利を与えることや、複数の海域で漁業権をしかるべき料金で日本人に提供することなどが記されています。

一方、この案でも合意できない場合は、3つめの案に切り替え「領土の画定問題に触れない善隣協力条約の締結を検討するよう提案する」としていたことが明らかになりました。

この条約をめぐっては、一緒に保管されていた別の文書に「事実上、この問題を消し去ることを意味する」と領土問題の幕引きをねらう意図が明記されています。

3つの提案については、会談の2か月前に当時のブレジネフ書記長などが署名した指令書にもほぼ同じ内容が記されているとロシアの歴史家が指摘していて、今回の文書はこの指令書に基づいて作成されたとみられます。

ただ、これらの案は結局、実際の会談では詳しくは日本側に提起されませんでした。

会談に同席した当時のトロヤノフスキー駐日大使は、回顧録の中で「田中氏の訪問に向けた準備に影を落とすような出来事があった」と記し、会談直前に第4次中東戦争が起きたことで日本との会談に集中できなかったことなどを指摘しています。

また、ロシアの対日政策に詳しいモスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授は「軍などが日本に対して譲歩すべきでないという意見を持っていた」と述べ、ソビエトの内部で最終的な調整が進まなかったことも背景にあると指摘しました。

一方、一連の文書について日ロ関係に詳しい神奈川大学の下斗米伸夫特別招聘教授は「体制の総意として日本をどうするかという点でいくつかオプションがありえた時期だった。『2島プラスアルファ』はありうるというボトムラインが当時からあったということだ」と指摘しました。

#日露

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