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#秋篠宮家OUT

 天皇皇后両陛下としては最大限の追悼の意を、安倍晋三氏の死去に際して示された。平成から令和にかけて、国の安寧のために共に身を捧げたというシンパシーだけではないだろう。雅子さまは、皇太子妃として皇室に入られるずっと以前から、安倍氏とは浅からぬ縁をお持ちだった。

 広々とした和室の床の間の前に、祭壇が設けられている。中心には、ノーネクタイの安倍晋三元首相が笑みをたたえる遺影があり、《紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士》と刻まれた位牌と骨壺が並んでいる。

 東京・渋谷区富ヶ谷の安倍邸の一室は、弔問客が絶えない。その祭壇を取り囲むのは、大きな白い生花、紅白の供物、色とりどりの果物。それらに添えられた大きな文字に弔問客は目を奪われる。

天皇皇后両陛下」

 それらはすべて、両陛下からの供物だという。

 7月11日午後、増上寺(東京・港区)で行われた安倍氏の通夜に、両陛下の焼香の名代として、側近である侍従が派遣された。

「両陛下は安倍元総理に、一般の香典に当たる祭粢料、供物、生花を贈られました。大物政治家の葬儀の祭壇といえば、並べられた供花に数多くの名札が立つのが通例ですが、安倍元総理の場合はたった1つだけ、『天皇皇后両陛下』の名札が置かれたのが印象的でした。そもそも、両陛下が首相経験者の葬儀に侍従を派遣することはめったにありません。昭和に安倍元総理の祖父である岸信介氏、平成に小渕恵三氏のケースがあったくらいでしょう」(自民党関係者)

 岸田文雄首相は14日、安倍氏の「国葬」を今秋に行う方針を発表した。

「当初、自民党内では別の形での大々的な葬儀の開催が検討されていました。しかし、岸田総理が急転直下の決断をし、異例の発表となりました。実はこの決定の背景に、雅子さまの強い追悼のお気持ちがあったそうです」(政界関係者)

「戦前は『国葬令』という法令がありました。天皇や皇族の葬儀を国葬で行うのに加え、国に功績のある人物が亡くなった際に天皇の決定があれば国葬にできるというものでした。実際、岩倉具視伊藤博文の葬儀は国葬として執り行われました。しかし戦後、政教分離の観点から制度が疑問視され、1947年に国葬令は失効しました」

 戦後、首相経験者は「内閣・自民党合同葬」や、そこに財界などからの有志が加わる国民葬で送られることが一般的となった。

「唯一の例外は、1967年、戦後日本の復興に尽力した吉田茂元首相の死去です。当時の佐藤栄作内閣が特例として閣議決定し、国葬にこぎ着けました」(前出・政治部記者)

 戦後、国葬で送られた人物は、吉田氏のほかに昭和天皇しかいない。岸田氏は、安倍氏国葬にふさわしい理由として、首相在任期間が憲政史上最長の8年8か月にわたること、国際社会からの評価が高いことなどを挙げた。

「果たして安倍氏を、全額を国費で賄う国葬にすべきなのか、『合同葬』や『国民葬』が妥当ではないかという声もあり、国民の間で少なからず賛否両論あることは事実です」(前出・政治部記者)

「皇后の雅子さまが、安倍元総理の突然の死に大きなショックを受けられ、悼まれるお気持ちがとても強いそうです。遺族の気持ちを案じつつ、しっかりとした形で送りたいと願われているという情報が、政府サイドに伝わったというのです。

 明治の時代、国葬はそもそも天皇や皇族を葬送するものであり、天皇の決定でのみ、皇族でない人を国葬とできました。いまは存在しないルールですが、両陛下の追悼のお気持ちは、岸田総理の背中を押した可能性があるのではないでしょうか」

 通夜の日、宮内庁次長は定例会見で「天皇皇后両陛下は安倍元総理の突然の訃報に接し、大変残念に思い、心を痛めておられ、ご遺族の皆様の悲しみを案じていらっしゃるのではないかと拝察している」と述べた。

「両陛下が踏み込んだお気持ちを表明する際、直接ではなく、側近がその内心を推察して“代弁”する形を取ることが多い。今回は、雅子さまの強いお気持ちが『拝察』につながったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)

 雅子さま安倍氏。その縁は、「皇太子妃と総理大臣」という公の関係となる、ずっと以前にさかのぼる。

雅子さまの実父で外交官の小和田恆さんは、福田赳夫氏が外相や首相の時代に、福田氏の秘書官を務めました。福田氏は小和田さんを厚く信頼していて『小和田さんは福田氏の知恵袋』といわれたほどです。その福田氏が率いた福田派の『プリンス』と呼ばれ、後継者だったのが、安倍元総理の父・安倍晋太郎氏でした」(別の政治部記者)

 こんなエピソードがある。森喜朗氏が1977年、福田改造内閣官房副長官に指名されたときのこと。

「当時、小和田さんは福田氏の秘書官で、官房長官の晋太郎氏とは密に仕事をしていた。森氏は、組閣名簿が読み上げられて初めて、自分が副長官に指名されたことを知ったそうです。驚く森氏のところに、小和田さんから『早く官邸に来てください』と電話が入った。慌てて駆けつけると、晋太郎氏が待っていて『遅い!』と一喝。当時の官邸では、小和田さんと晋太郎氏は“名コンビ”といったところでした」(前出・政治部記者)

 1982年、中曽根内閣で晋太郎氏が外務大臣になると、その秘書官に、本格的に政界入りを目指す次男の晋三氏が登用された。一方の雅子さまは、米ハーバード大学で学業を修め、1985年に帰国された。

「その頃、秘書官が“連絡係”として外務省幹部の自宅を訪れることは珍しくなく、安倍氏もたびたび小和田邸を訪れていた。安倍氏はよく周囲に“私は政治家になる前に、東大生だった頃の雅子さまとよく顔を合わせていたんだ”と話していました」(前出・別の政治部記者)

 1987年春、雅子さまは外務省のキャリア官僚となられた。

「入省の際、晋太郎氏は小和田さんとの縁もあったので、雅子さまにお祝いを伝えたり、助言を送ったり、いろいろ気にかけたそうです」(前出・政治部記者)

 1993年は、2人のその後の人生を大きく変える年となった。雅子さまは結婚され、皇太子妃となられた。安倍氏は、1991年に急死した晋太郎氏の地盤を引き継いで初の衆院選に挑み、当選を果たした。

 皇后と首相。それぞれの立場で令和の時代が始まった。

「印象深いのは、2019年のトランプ前米大統領来日です。雅子さまは得意の語学を生かされた接遇、安倍さんはゴルフ接待と、それぞれのやり方で、トランプ夫妻と親交を深めた。常に世界を意識してきたお二人だったからこその“おもてなし”は、歴史的な成功をおさめたといえるでしょう」(外務省関係者)

 雅子さま安倍氏の共通項について、皇室ジャーナリストが思いを巡らせる。

雅子さまは安倍さんと同じように、父の姿を追って進む道を決められました。また、立場こそ違えど、常に世界を見据えて生きてこられた。『もっと世界とかかわりたい』という思いは共通だったのではないかと思います。30年以上前から、同じ時代を生きてきた、ある意味での“盟友”の死です。雅子さまが安倍さんのしかるべき弔いを切望されていることは、自然なことでしょう」

 9月、国葬には両陛下も出席される予定だ。

#天皇家OUT

国葬とは、国家が主催し、国費をもって実施する葬儀のことをいう。

日本では、天皇・皇太后などのほか、明治以降1945年までの間、天皇の「特旨」(特別な思し召し。)によって「国家ニ偉功アル者」の国葬が行われていた。国葬の初例は、1883年に行われた岩倉具視の葬儀だが、制度こそなかったものの1878年大久保利通の葬儀は国葬に準ずる規模で催された。

大久保は、5月14日に石川県士族島田一郎らに暗殺され、そのわずか3日後には葬儀が盛大に行われた。かつてないほどの大がかりな葬儀を、なぜこれほどまでに急いで実施しなければならなかったのか。暗殺されたのだから事前の準備はない。

葬儀を主導したのは、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文と、大久保と同じ薩摩藩出身の西郷従道大山巌らである。彼らが心配したのは、政府の最高実力者であった大久保が不平士族の手にかかって落命したことで、反政府活動が活発化することであった。前年には、西南戦争があったばかりで、不平士族はもちろん、自由民権派の活動などへも政府は警戒を強めていた。明治政府は、この段階ではまだまだ盤石ではなかった。

そこで、伊藤たちは、天皇が「功臣」の死を哀しんでいる様子を、大規模な葬儀という形で国内外に見せつけようとした。葬儀を通じて、天皇の名の下に島田らの「正義」を完全否定し、政府に逆らう者は天皇の意思に逆らう者であることを明確にした。大久保の「功績」を、天皇の「特旨」をもって行われる国家儀礼で揺るぎないものとし、それによって政権を強化しようと葬儀を政治利用したのである。

そしてこの葬儀は、一般の人びとを巻き込んで執行された。かつてない規模のセレモニーを一目見ようと人びとが集まり、葬列はさながらパレードのような状態となった。

私には、伊藤たちの思惑が岸田首相の発言と重なった。表面上は、民主主義を守ると言っているが、多数残されている安倍元首相の疑惑を覆い隠し、安倍政権の評価を固めて自民党政権を守ろうとしているのではないか、と。

近世までの民衆は、自分が日本人であるという自己認識はもっていなかった。そもそも近世に、日本という国家は存在しない。大多数の人びとは、将軍や大名に対する従属意識はあっても、天皇が何者なのかはよく知らない。

明治政府は、そうした人びとを「国民」に変え、国家の構成員としなくてはならなかった。その政策の柱の一つとして、天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。

天皇から国葬を賜った「功臣」に対する評価は絶対的なものとなる。個人の意志にかかわらず、国葬を通じて「功臣」を追悼することが強制され、国民は一つの方向を向いて「功臣」に敬礼しなければならない。

もっともわかりやすい例は、山本五十六国葬であろう。山本は、第2次大戦中の1943年に、戦局が悪化する中、ブーゲンビル上空で米軍機に撃たれて戦死した。山本は、先例に従えば本来対象とならないが、天皇の「特旨」によって国葬を賜ることになった。

国葬に際して、東条英機首相は、「一億国民の進むべき道はただ一つであり」、山本の精神を継承して「米英撃滅」に邁進し、「宸襟しんきん」(天皇の心。)を安んじなければならない、と国民にうったえた。国民的人気が高かった山本の戦死を利用して、戦時体制を強化しようという意図があからさまである。

銃後の母親たちには、国葬当日「弔旗を掲げるにしても、神棚へお燈明を上げて礼拝するにしても、お母さんたちは故元帥の遺志は自分たちがお継ぎするという気持を持ち、元帥こそは吾国民の鑑であることをよくお子さんたち達に説明してからにしていただきたい」などと指示が出された(『朝日新聞』1943年6月5日朝刊)。

国葬を通じて、国民はみな山本の遺志なるものを継いで、戦争に協力することを強要されたのである。

極端な例を挙げていると思われるかもしれないが、本質的に国葬は、国民を一つにまとめようとして実施されるものである。国家の危機に際して、山本の国葬ではその性格がむきだしになって表れたのである。

敗戦後、国葬令は1947年12月31日をもって失効した。

1946年には、地方官庁および地方公共団体に対して「公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追弔会等)は、その対象の如何を問わず、今後挙行しないこと」と、国から通達が出されている。国葬をはじめとする公葬は、神式で行われてきた。連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)が、神社・神道を政治から切り離して「国家神道」を解体しようとする中で、公葬も必然的に禁止されることになる。以後、現在に至るまで国葬を行うための直接の根拠となる法令は作られていない。

戦後唯一の例外として吉田茂国葬が知られている。

1967年、吉田が急死すると外遊中だった佐藤栄作首相は急遽帰国し、国葬実施のための調整を進めた。まもなく閣議国葬が正式決定し、佐藤は「もっとも苦難にみちた時代にあって、七年有余の長きにわたり国政を担当され、強い祖国愛に根ざす民族への献身とすぐれた識見をもって廃墟と飢餓の中にあったわが国を奇跡の復興へと導かれた」との談話を発表した(『朝日新聞』1967年10月23日夕刊)。

日本武道館で行われた葬儀は、国内外から約5000人の参列者を得て、宗教色を排除して実施された。皇太子夫妻(現・上皇上皇后)も出席している。九段下には約8500人の群衆が詰めかけ、大磯の邸宅から武道館までの道のりには約7万人の人だかりができたという。

だが、吉田の国葬にはだれもがもろ手を挙げて賛成したわけではなかった。

吉田の国葬では、もはや戦前の国葬のような風景は見られない

安倍元首相の国葬をめぐっては、安倍政権への疑惑や国費の使用、政教分離、決定までの手続きなどが主な論点となっている。それらも、もちろん重要な問題だと思う。だが、岸田首相の発言にふれて、国葬についていくらかの知識と関心を持ち合わせていた私の頭をよぎったのは、時代を逆行しているかのような恐ろしさであった。

国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見を抑圧しうる制度など、民主主義のもとで成立しようはずがない。

「功臣」の国葬は日本史上ですでにその役目を終えている。戦後実施された吉田茂国葬は、政府が期待したほどには盛り上がらなかった。その後、佐藤栄作をはじめ歴代首相の葬儀は、反対意見を無視できずに国民葬や合同葬にスケールダウンせざるを得なかった。まさか復活するとは夢にも思わなかった。

今年の秋に、山本五十六国葬のような状況が再現されるとはさすがに私も考えていない。吉田の国葬の時のように、無関心な層が多いかもしれない。だが、国葬とすることで国家が安倍元首相の業績を特別視し、批判意見を抑圧してしまう恐れがある。安倍元首相の追悼記事の多くは、「批判に対して寛容な人柄だった」と伝えている。そうだとすれば、国葬は安倍元首相の遺志にも反するのではないだろうか。

何も考えないで沈黙していれば、日本国民がみな彼を称え、自民党政権の業績を認めているという既成事実が創られてしまう。意見はいろいろあって良い。私の発言は、たたき台でよいから、一人でも多くの人にこの問題について考えてほしい。

#アベノミクス#リフレ#金融政策#円安政

『行政法Ⅰ 第六版』(塩野宏)
P81

組織規範、規制規範、根拠規範

P82

ある自然人の行為の効果を行政主体に帰属させるのが組織規範である。

規制規範というのは、ある行政活動を行政機関がなしうることを前提として、その適正を図るために規制を設ける、というものである。

根拠規範とは、ある行政活動を行うのに組織規範が存在するとして、更にこれに加えて、その行為をするに際して特別に根拠となるような規範を指す。いいかえると、組織規範では足りずこれとは別に活動の根拠となる規範が必要であるとされた場合の規範を指す。

P83

法律の留保論というのは、右にあげた規範のうち根拠規範に関するものであることは、右に述べた規範の種類ごとの説明から明らかであろう。問題の出方としては、要するに、行政がある行為をするに際して組織規範のほかに根拠規範を要する場合とはいかなる場合であるか、を検討の対象とするものである。そして、その際、規範の形式としては、当然、形式的意味の法律が考えられていた。

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#天皇家

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平安神宮

孝明天皇の御尊顔が明治天皇の写真似に変わっちゃったでしょ?なんでそんなことをする必要があったか?偽睦仁(明治天皇)だからですよね。

#孝明天皇肖像画

#気象・災害