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今の皇室で最高齢の三笠宮妃の百合子さまは、4日、100歳の誕生日を迎えられました。

宮内庁によりますと、百合子さまは、東京 港区の赤坂御用地にあるお住まいで健やかに過ごし、午前中には、健康のためテレビ番組の体操などの運動を15分程度、行われているということです。

また、天気のいい日には、車いす赤坂御用地内を散策し、四季折々の自然を楽しまれているということです。

明治以降の皇族で、100歳を迎えるのは7年前に100歳で亡くなった夫の三笠宮さまに続いて百合子さまが2人目です。

お気持ち述べられた文章 全文

18歳で宮家に上がってから既に80年以上という長い歳月が過ぎ、この度100歳の節目を迎えることができました。

結婚後は、私自身の皇族としての公務を果たしながら、宮様をお支え申し上げる日々を送っておりました。

こうした中でも家族の思い出となる記録を残したいと思い、家族一人一人の歩みが分かるように写真アルバムを作成したり、5人の子供たちの育児日誌をつけたりと、時間に追われながらも充実した毎日を過ごしておりました。

私が子育てをしておりました時期は、日本社会全体がまだまだ大変な時期でございましたから、いつも宮様を始め多くの方々が私を支えてくださいましたことを、深い感謝の念を抱きつつ思い起こしております。

現在は、孫や曾孫の成長をとても楽しみとしております。

これからも人々の幸せを祈念しつつ、日々を過ごしてまいりたいと存じます。

三笠宮妃百合子さまとは

三笠宮妃の百合子さまは、大正12年6月4日、当時、子爵だった高木正得氏の次女として誕生されました。

昭和16年に女子学習院の本科を卒業し、その年の10月、18歳で、昭和天皇の弟の三笠宮さまと結婚されました。

三笠宮さまとの間には「ひげの殿下」として知られる三笠宮寛仁さまや桂宮さま、高円宮さまなど3男2女をもうけられました。

戦時中は空襲によって住まいが全焼し、防空ごうで生活するなど苦難の時期を過ごし、戦後、三笠宮さまが東京大学の研究生として西洋史の研究を始めると、ノートを書き写したり資料の整理をしたりして、支えられたということです。

昭和23年には「母子愛育会」の総裁に就任し、平成22年に退任するまで60年余りにわたって母子保健の向上に力を尽くしたほか、日本赤十字社の名誉副総裁も務められています。

また、三笠宮さまとともにヨーロッパや中東諸国を訪ね、国際親善にも努められました。

百合子さまは、現在も公的な行事に臨んでいて、ことし1月には、新年祝賀の儀や新年一般参賀にも出席し、元気な姿を見せられました。

また、高円宮さまの三女で、孫にあたる守谷絢子さんの子どもなど8人のひ孫に恵まれ、成長を楽しみに過ごされているということです。

孫の彬子さま「皇族としても 1人の人間としても 指針」

三笠宮妃の百合子さまが100歳を迎えられるにあたって、孫の三笠宮彬子さまが先月26日にNHKのインタビューに応じられました。

Q.最近の百合子さまのご様子は。

A.ご本をお読みになったり、雑誌をお読みになったり、クロスワードパズルをされたり、ジグソーパズルをされたり、机の上でお楽しみになれることを楽しまれたりですとか。

お花見の、桜のきれいな時期にはちょっとドライブで見に行かれたりとか。

野球もお好きでいらっしゃるので、ことしのWBCは遅くまでご覧になったというお話を伺いました。

Q.去年、三笠宮さまの伝記が出版されました。

A.妃殿下(百合子さま)のお申し出で、数年前、殿下(三笠宮さま)がお隠れになられてから1年ちょっとたった時だったかと思いますけれども、殿下の伝記をまとめたいというお話になられて。

私も歴史の研究の道にいたということもございましたので「彬子に手伝わせたい」ということをその時にお話をいただいて。

妃殿下の強い思いというのは強く感じましたし、殿下の足跡をきちんと形にして残したいという思いのお話を伺っておりましたので、これは何としても形にしなければならないと思って、この数年間、必死にまとめたような感じでございます。

Q.彬子さまは、三笠宮さまの伝記では百合子さまのオーラルヒストリー(口述史)の聞き手を務められました。

A.オーラルストーリーですと、どうしても文書をきれいにして雑味のない形にまとめることも多いと思うのですけれども、孫の私が伺ったこと、近衞のおば(近衞やす子さん)も同席してくださったこともありまして、三笠宮家のふだんの会話ですとか雰囲気がきちんと伝わったらいいなと。

それが皆様、読んで下さる方にも伝わったらいいなという思いで、なるべくむだなところを省かないようにしてまとめました。

妃殿下はふだんから本当に楽しそうにお話をしてくださいますので、聞き取りの中でも笑いがずいぶんとありましたし。

現代のわれわれの価値観で判断してしまいますと、例えば、夜中に殿下が「これ明日の朝までに写しておいてくれ」とおっしゃって、ノートを妃殿下がお写しになるということもすごく亭主関白のように伝わってしまうかもしれないのですけれども、妃殿下はそれを本当におよろこびとして、殿下をお支えになるのはうれしいというお気持ちでやっていらっしゃるので、そういったこともきちんと雰囲気として伝わるといいなというのを心がけて編集をいたしました。

Q.伝記では、百合子さまが軍人であった三笠宮さまの戦争時のエピソードを語られました。

A.妃殿下の口から直接伺ったのが、6、7年前でしょうか。

軽井沢の三笠宮家のご別邸にお伺いした時に、ちょうど終戦記念日の日で、妃殿下が突然「終戦の日はすごく暑くてね」とお話をされて。

終戦の前日には、青年将校の人が来て、戦争を続けたい側と、もうやめるべきだという殿下と言い合いになって、本当にピストルが飛び交うかもしれないと思うようなとても緊迫した雰囲気だったのよ」というお話を本当にさらりとされました。

妃殿下にとっては、この戦争というものが、日本の歴史の一部であり、ご自身の歴史の一部なんだということをその時に初めて実感しました。

その青年将校は殿下のご同期のとても優秀な方でいらっしゃって、意見があわなくて喧嘩別れになるようなことでしたけれど、別れ際に殿下のお付き武官に「きょう、御所にお上がりにならないように」ということを言い置いて出て行かれて。

それは玉音盤を青年将校たちが奪取する計画があったので、殿下がお巻き込まれにならないようにという心遣いで言い置いて行かれた訳ですけれど「どんなに意見が違ったとしても『同期の桜』として宮さまのことをすごく大切に思っていらっしゃったのよね」というのを妃殿下がその時にお話になられて。

すごく胸が熱くなりました。

「同期の桜」というのは、よく聞く言葉ではありましたけれども、本当に「同期の桜」の話を聞くことはなかなかございませんので、そういったお話を伺えて、殿下がご存命の時にはあまり戦争のお話は殿下ご自身、そんなに積極的になさりたいような感じがございませんでしたので、私自身、ほとんど直接伺ったことがなかったので、今回も殿下がお隠れになってから妃殿下からお話を伺うことがあった時に、殿下からもう少し色々お話を伺っておきたかったなということはいまさらながら思いました。

Q.三笠宮さまと百合子さまの関係は。

A.本当にこの組み合わせ以外はあり得なかったんじゃないかなということは改めて思うところでございます。

貞明皇后が妃殿下をお選びになられた訳ですけども、すごく先見の明がおありになったのだなということを思いますね。

妃殿下はよく「殿下がすごく先進的で、はきはきと色々なことをお決めになって、前へ前へと進んでいかれる方だったから、私がのろのろとおそばにいたことで、ずいぶん宮さまのお仕事であったり、なさりたいことを邪魔してしまっていたと思うのよ」とおっしゃることがあるのですが、「妃殿下がのろのろされていた訳ではなくて、殿下がそう前へ前へといかれる方だからこそ、妃殿下がそうやって穏やかにゆっくりと殿下をお支えになられたからこその三笠宮同妃両殿下でいらっしゃったのだろうなということと思います」というお話を(妃殿下に)強くするのです。

Q.皇室における三笠宮さま、百合子さまの役割について。

A.戦争中に軍人として色々なところに行かれる中で、どうしてもみんなが直立不動で頭を下げて「人間らしいふれあいは戦前はなかった」と殿下がおっしゃっていました。

レクリエーション協会などで、フォークダンスを全国で広めるというご活動をされて、皇族と国民が手を取り合って踊るということは、当時の方々にとってはおそらく想像を超えたことであったと思いますが、両殿下が率先して、本当に小さな町の体育館ですとか公民館とかにもお出かけになられて広げられたということです。

そういった意味で、皇室と国民の距離を縮めるというのをずっと三笠宮殿下はなさってこられたというのは感じますし、それを妃殿下はずっとおそばでお支えになってこられて。

当時はどうしても、男性の方がお仕事に行かれて女性は家庭を守るという世の中である中で、両殿下がおそろいでさまざまなところにお出ましになって、さまざまなご経験をされてということで、女性の役割といいますか、妃殿下としてのお務めを果たされるのは当時は本当に大変なことだったと思うんです。

それをしっかりとぶれずにやってこられたのは、今、振り返ってみると改めてすごいことだったのだなと思います。

Q.百合子さまへの思いは。

A.今もお元気に穏やかにお過ごしなのは、孫としても、本当にこの上なくうれしいことで。

今も(お住まいの)ご本邸にお伺いして、妃殿下にお話を伺ったり、お食事をご一緒する時間というのが本当に私自身、とても幸せで、たくさんのことを何気ない会話の中から教えていただいておりますし、それが私にとって、本当に皇族としても、1人の人間としても、妃殿下が指針のような存在ですので、これからも、たくさんのお話をお伺いさせていただきたいと思っています。

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#天皇家

2015年制作のSF映画「オデッセイ」でマット・デイモンが演じたのは、火星に置き去りにされながら、人糞を肥料にして栽培したジャガイモを食べて生き延びる宇宙飛行士だった。

今、宇宙食のメニューはこれまでと非常に異なる方向へと進みつつある。その担い手は、「カーボン・ネガティブ」、つまり排出する以上の二酸化炭素を除去することになる航空燃料を製造するニューヨークの非公開企業「エアカンパニー」だ。

米航空宇宙局(NASA)主催による、宇宙飛行士の食料ニーズを満たすための次世代技術のコンテスト「ディープ・スペース・フード・チャレンジ」で、同社は決勝ラウンドに勝ち残った。

エアカンパニーはフライト中に宇宙飛行士が排出した二酸化炭素を再利用して、プロテインシェークの材料となる酵母ベースの栄養素を培養する方法を開発した。大気圏外での長期ミッションに従事する乗組員の栄養源となることを目指している。

「『タン』よりも確実に栄養がある」と、同社の共同創業者であるスタフォード・シーハン最高技術責任者(CTO)は言う。「タン」とは、1962年に米国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」に参加した故ジョン・グレン氏が、米国人として初めて地球周回に成功した際に摂取し話題になった粉末飲料だ。

イェール大学の物理化学の博士号を持つシーハン氏は当初、炭素変換技術をジェット燃料や香水、ウォッカに用いられる高純度アルコールを製造する手段として開発してきた。

だがNASAのコンテストを知り、自分の発明を改良すれば、同じシステムで食用のタンパク質、糖質、脂肪を生産できるのではないかと思いついた。

<まるで代替肉のような味>

シーハン氏によれば、NASAのコンテストに出品された単細胞プロテイン飲料は、ホエイプロテインシェークと同じような濃度だ。その風味は「セイタン(グルテンミート)」に似ているという。セイタンは東アジアの料理に起源を持ち、小麦のグルテンから作られた豆腐のような食品。ベジタリアンが肉の代用品として利用している。

シーハン氏はあるインタビューの中で「麦芽の風味のような甘い味わいもある」と語っている。

同じ方法で、プロテイン飲料だけでなく、もっと糖質の豊富なパンやパスタ、トルティーヤの代用品も製造可能だ。シーハン氏は、料理のバリエーションを増やすために、宇宙でのミッションではスムージーだけでなく、持続可能な形で生産された他の食品を追加することを考えている。


エアカンパニーが特許を保有する「エアメード」テクノロジーは、NASAが今月発表した宇宙食コンテストで他の7つの候補とともに2次予選に勝ち残り、75万ドル(約1億円)の賞金を獲得した。決勝ラウンドは近日中に実施される。

ほかの決勝進出組には、フロリダ州の研究機関が開発した、新鮮な野菜やキノコ、さらには微量栄養素となる昆虫の幼虫も育成する生物再生システム、カリフォルニア州で開発された、植物・菌類ベースの食品材料を生成する人工光合成プロセス、単細胞タンパク質生産のためのフィンランド発のガス発酵技術などがある。

賞金として最大150万ドルが、優勝者らで分配される。

ミシュランの高級レストランガイドに掲載される可能性があるものはほとんどない。とはいえ、こうした技術は、宇宙旅行の黎明期に飛行士らが摂取していた「タン」やフリーズドライのスナックから見れば大きな進歩だ。

新しい食料生産方式は、「オデッセイ」でデイモン演じる飛行士が食べていた架空のジャガイモよりも食欲を刺激するし、栄養価もはるかに高くなることが期待される。

NASAケネディ宇宙センターで宇宙作物生産マネージャーを務めるラルフ・フリッチェ氏は「あれはハリウッド映画向けに、アイデアを極端にしたものだ」として、人間の排泄物だけでは「植物が生育し、生い茂るのに必要な完全な栄養源とはならない」と付け加えた。

宇宙飛行士は低周回軌道における宇宙船という、制約の多い無重力状態の空間に長期にわたり閉じ込められる。この間、飛行士らの栄養状態を良好に維持することはNASAにとっての長年の課題だった。この20年間、国際宇宙ステーション(ISS)の乗組員はほぼパッケージ食品で生活し、少しばかりの生鮮食品が定期的な補給ミッションで届けられるだけだった。

NASAによると、ISSのチーム衛星軌道上でレタス、キャベツ、ケール、トウガラシなど、さまざまな野菜を栽培する実験をしてきたという。

だが、NASAが有人月面着陸の再開や、ゆくゆくは火星やその先の天体への有人探査を視野に入れるようになる中で、最小限の資源だけに頼る自己完結型で廃棄物の少ない食料生産という課題が、ますます顕著になってきた。

NASAのフリッチェ氏は、気候変動によって食糧が不足し生産が一段と困難になる時代において、宇宙を拠点とする食料生産が進歩すれば、増加し続ける地球の人口を養うことにも直結すると語る。

「私たちが月面に最初に展開する環境制御型農業(CEA)モジュールは、地上で行われる垂直農法といくらか似たものになるだろう」とフリッチェ氏は語る。

シーハン氏のシステムは、まず宇宙飛行士の呼気から抽出した炭酸ガスと、電気分解により水から取り出した水素ガスとを混合する。これによって生成されるアルコールと水の混合物を少量の酵母に与え、単細胞タンパク質などの再生可能な栄養素を培養する。

シーハン氏によれば、要するに二酸化炭素と水素が酵母のためのアルコール原料を作り、「酵母が人間のための食料となる」という。

「私たちは製品を再構築しているわけではない」とシーハン氏は語る。「単に、これまでより持続可能な方法で作るというだけの話だ」

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#脱炭素社会(グリーンピース創設者パトリック・ムーア)