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 幼稚舎から大学までを擁する慶應義塾の最高意思決定機関である「評議員会」。慶應が創立150周年を迎えた2008年、その評議員会では「高校野球で甲子園優勝を目指してはどうか」との案が議論されたという。それに遡ること5年の03年からは推薦入試制度が設けられ、高い内申点や、作文・面接をクリアしなければならないものの、野球部には毎年10人弱の有力選手が集まるようになった。そして上田誠前監督(66)の下で05年春、08年春夏、09年春と甲子園出場を果たし、15年秋に森林貴彦監督(50)に交代した後も18年に春夏連続出場するなど、甲子園に「戻って」きていたのだ。

 つまり、今回の優勝は「満を持して」のものだったわけである。

 悲願を達成するために甲子園の地に立った慶應ナインには、勝ち上がるにつれ、さまざまな方向からスポットライトが当てられることになった。その一つが、森林監督が上田前監督から受け継いだ、「エンジョイ・ベースボール」だ。髪形自由、練習も選手の自主性に任せるなど、旧来型のスパルタ方式とは無縁の指導法で、その申し子のような存在として注目が集まったのが先の丸田選手らである。また、あの清原和博氏(56)の息子の清原勝児選手(18)がベンチメンバーに名を連ねていたこともあり、「慶應フィーバー」のような状況となるのは当然の成り行きだったといえよう。

「テレビ各局のほとんどのワイドショーは慶應推し、特に丸田選手推しで番組を作っていましたね。フジテレビは『めざましテレビ』や『めざまし8』などでしつこいくらい丸田選手のことを取り上げていました」(テレビ局関係者)

 しかしこれだけ盛り上がったにもかかわらず、慶應の優勝について「モヤモヤしたものを感じる」と違和感を表明する人が一定数存在したのも事実である。その背景に、先に触れた「大応援団」の存在があることは間違いないだろう。

“内輪ノリ”――それこそが「違和感」の正体を解明する上での重要なキーワードとなるかもしれない。

 慶應の卒業生(塾員)によって構成される同窓会組織「三田会」の結束力の強さはよく知られているが、

慶應の人は三田会や慶應閥として、単なる同学というつながりだけで群れようとするのが気持ち悪い」

 本誌(「週刊新潮」)連載陣の一人、ネットニュース編集者の中川淳一郎氏はそう話す。

「今回、この群れる習性が決勝でのああした応援につながり、非難の的となってしまったのではないでしょうか。慶應の応援団は群れの性質で外部を入り込ませない“内輪ノリ”の応援をしてしまった。それで慶應“外”からのバッシングを受けているわけです」

 大学ジャーナリストの石渡嶺司氏も、

慶應の三田会は日本最大の卒業生組織です。だからこそ応援に熱が入ったという部分はあるのでしょうが、そこが鼻につくという人も当然出てくるでしょう」

 と、こう語る。

「三田会の結束力はビジネスの場でも生かされることがあります。慶應同士であれば、良かったねという話になるのですが、別の大学の出身者、特にビジネスがうまくいかなかった側からすれば面白くない。例えば会社の同期や後輩に慶應の人がいて、三田会人脈で契約が取れたなどという話を耳にすると、やっかみを含めて反感を覚えるのが普通です」

 慶應の卒業生約40万人で構成される三田会。

「卒業年度別、学部別、職種別、会社別など、三田会は網の目状に組織されています。また、中央集権的ではなく、それぞれの人が自発的に動いてできていることも、結束力が強い要因だと思います」

慶應三田会 組織とその全貌』の著者で宗教学者島田裕巳氏はそう話す。

「卒業生が社会に出る度に組織としてどんどん大きく、強くなっています。卒業生が毎年生まれるのはどこの大学でも同じですが、それを取り込み再生産できるのが三田会の強さ。東大や早稲田の人は同窓会に関心がない人が多いですから」

 三田会の強さの源泉には、慶應義塾の創設者である福澤諭吉の思想もあるという。

福澤諭吉が残した教育理念のうち、三田会との関係で何よりも重要なのが『社中協力』の考え方です。慶應義塾で学んだことのある人間の集合体が社中。社中協力とは、同じ社中に属する人は親睦を深め、人間関係のネットワークを広げていかなければならない、という考え方。三田会のネットワークが広がっているのも、この理念が生きているからです」(同)

「幼稚舎から普通部、そして内部では塾高と呼ばれる慶應義塾高校を経て大学に行くのが本来の慶應ボーイで本家本流。数ある三田会の中でも幼稚舎三田会は結束力が極めて強く、別格の存在です」(慶應OB)

 慶應高校から東大に進んだ秀明学園理事長、秀明大学学長の川島幸希氏が言う。

「幼稚舎から上がってくる人は家柄が良くてお金にも余裕があり、卒業後は何年か別の企業に勤め、ゆくゆくは家業を継ぐといった人が多かったですね。ガツガツギラギラした人は基本的にいません。政治家の子も多く、私の時だと一つ下に石原良純氏、二つ下に河野太郎氏がいました」

 慶應普通部から慶應高校、その後早稲田大学政治経済学部に進んだ放送大学教授の原武史氏は、

慶應普通部に進学した時、団地に住んでいたのはクラスで私だけ。世田谷区や大田区、目黒区、渋谷区などの名だたる住宅地に住んでいる生徒が多く、階層のギャップを感じました」

 と、述懐する。

「だからといってイジメはなく、私は当時から鉄道の研究をしていたので、一人のエキスパートとして認める空気がありました。ただ、それでも慶應ブルジョワ的雰囲気になじむことはできませんでした」

 そんな原氏も、今回の甲子園優勝で自身の愛校心に気付かされたという。

「あの応援は全体主義的に見えるかもしれませんが、慶應の文化は全く違う。規律や校則で生徒を縛ることがなく、自由な校風です。ただし、あの応援の仕方は大学の早慶戦と全く同じで、違和感がありました。甲子園は神宮球場ではないのですから」(同)

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