https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

 今年は角栄が生まれてから100年、死去してから25年の節目に当たる。幾星霜を経ようと、その栄光と転落の75年の人生が色あせず、折に触れて「角栄ブーム」が起こるのは、人々がそこに神話めいたものを見いだしているからだろうか。自らの才覚と器量で頂まで上り詰めた今太閤。しかし、何より彼をカリスマたらしめていたものは、児玉隆也が書いた通り、金に他ならない。しかも、誰彼かまわず、ただ金をバラまいていたわけではなく、そこには「哲学」があった。

「金は受け取る側が実は一番つらい。だから、くれてやるという姿勢は間違っても見せるな」

 といった言葉は、「哲学」なしに発することはできまい。また、金を渡すタイミングも絶妙だった。例えば、政治家にとって、金が最も必要なのはいつか。無論、それは選挙の時で、角栄の秘書軍団や後援会はここぞとばかりにフル稼働するのである。

「確か角さんがロッキード事件で逮捕された後の選挙の時だったと思いますが、上の人間に突然、段ボール箱を作れと命じられた」

 そう述懐するのは、史上最強の後援会と謳われた「越山会」の関係者だ。

「で、部屋の中で段ボール箱を組み立てていると、そこにどんどん金が運ばれてきて、それを詰めていくのです。箱の数は10や20ではきかず、みるみるうちにいっぱいに。金は全て新券、いわゆるピン札だったので、私はそれで手を切ってしまい、上の人間に“札に血がつかないよう気を付けろ”と怒られたのを覚えています。1箱に詰めた額はおそらく1億円だと思います」

“作業”はそれで終了ではなかった。

「角さんの秘書に呼び出され、金を詰め終わった段ボール箱を一つ北陸の自民党系候補の元に運ぶよう命じられたのです。車ではなく電車で行けというので、重い箱を抱えて新潟から向かいました。今襲われたらどうしよう、と内心ドキドキしながらね。候補者本人に渡せとの命令だったので、“角さんからの陣中見舞いです”と言って手渡しました」(同)

 無論、陣中見舞いは金だけに限らない。

「角さんが何かを配る時の口癖は“圧倒的な差を見せつけろ”。他の議員が一升瓶を1本寄付したら、こちらはケースや樽ごと送る。後援会では誰に何をどれくらい配ったかをしっかりとリストにまとめており、選挙の際には前回と同等かそれ以上の物を送るように、と厳命されていた」

 と言うこの越山会関係者が“運べ”と命じられて最も驚いたのは、

「地元新潟の名産の錦鯉。県内の業者から買った錦鯉をビニール袋に入れ、新潟から目白の角さんの自宅まで運びました。てっきり、自宅の庭に放すものだと思っていたら、そうではなく、事務所の人がどこかに持っていく。後で聞いたらそれは高級な錦鯉だったらしく、支援者の元に運ばれて金に換えられる、とのことでした。現金だとまずい場合などにそうした手法が取られていたようです」

金権政治家と揶揄されることも多いですが、角栄さんのお金の使い方は実はとてもきれいで、自分のためではなく、周囲にどんどん渡してしまう。“金は貸したら返ってこないと思え”というのが口癖だった彼はとにかく、“生きたお金の使い方”に長けていた」

 そう語るのは、長らく角栄番記者を務めた「新潟日報社」の小田敏三社長。

「ある時、角栄さんが何人かの記者を連れて伊豆辺りの旅館に泊まったことがありました。到着すると、彼はまず秘書の早坂(茂三)さんに旅館で働いている女中の人数を尋ねます。早坂さんが答えると、人数分のご祝儀を用意して配ります」

 人心掌握術に長け、“人間学博士”とも呼ばれた角栄の真骨頂が発揮されるのは、ここからだ。

「帰り際にはあいさつに来た女将(おかみ)さんに“皆でお菓子でも食べて”と10万円ほど渡す。すると女将さんは“いえ、昨晩のうちに秘書の方から頂いています”と答える。そこで、角栄さんは早坂さんの方を見てニヤッと笑って“お前、気が利くな”と言い、“これは僕からだ”としてそのお金を女将さんに再び差し出すのです。一連の言動で、角栄さんは、早坂さんの顔を立て、女将さんの心もつかんでしまったわけです」(同)

 角栄流の気配りはそれで終わりではなく、

「調理場の方にも向かい、料理人たちに対して“おいしかった。本当にありがとう”と声をかける。料理人たちはまさかそんなことを言ってもらえると思っていないから驚き、出発する時には、皆が見送りのために玄関に出てきて大盛り上がりでした」(同)

 ちなみに角栄はピン札が好きで、毎朝、秘書に大量に用意させていたという。

「新券の場合、通し番号がそろった状態で手元に置かれるので、枚数を数えなくとも通し番号で金額が把握できる。番号を見ただけで、“50万円”と相手に手渡したりする姿はとても印象的でした」(元秘書)

 新潟日報の小田社長(前出)はこう話す。

「目白の自宅にはピン札の千円札も用意されていて、記者を迎えにきたハイヤーの運転手に角栄さんが“お疲れ様”と渡す。そういう心遣いがあると、千円札でも重みが違ってきます」

 もちろん、政治家としてのし上がるためにも金は湯水のごとく使われ、冒頭で触れた通り、選挙の際には、段ボール箱いっぱいに詰めた“実弾”を自民党候補者に届けることもあった。

角栄さんは、全議員の4分の1を田中派にできれば、スムーズに日本の政治を動かせると考えていました」

 と、小田社長は言う。

「全議員の過半数を占める自民党議員の、そのまた半分という考え方です。数にすると130人ほど。それに加えて野党の議員も何人か抱えていた。彼らを従えるために相当な金が必要だったわけです。角栄さんが総理を辞任する時、佐藤昭さんに“場合によっては総選挙になるから金を用意しておけ”と言ったそうで、その額は100億円だったといいます」

 特筆すべきは、角栄はただ金を配って恩を売るだけではなく、相手の心までわしづかにしてしまうことがままあったという点である。

 政治評論家の小林吉弥氏が語る。

田中派のある若手議員が、女との不始末の清算でどうしても100万円の現金が必要になった。しかし自分ではすぐにそろえられず、角栄に電話して借金を申し込んだところ、彼は話を半分まで聞いたところで“分かった。金はすぐに届けさせる”と応じたそうです」

 30分ほどで秘書が紙袋を届けに来た。開けると、そこには本人が申し込んだ額の3倍の300万円の現金が入っていた。

角栄によるメモも添えられており、こう書かれていた。“一、まず100万円でケリを付けろ。二、次の100万円はお前の不始末で苦労した周りの人にうまいものでも食わせてやれ。三、次の100万円は万一の時にとっておけ。四、300万円全額の返済は無用である。”若手議員は涙しながらそのメモを読んだといいます」(同)

 その“情”に感服した若手議員は角栄に殉ずると決心し、実際、最後まで彼を支え続けた。こうした人づき合いの方法は女性に関しても同様であった。

 情に厚く、金離れの良い角栄が女性にモテたのは当然といえば当然。その宴席は常に明るい酒だった。

角栄が芸者遊びをしている時は常に笑いが絶えないので、他の座敷にいる芸者たちが角栄の座敷に移りたくてそわそわしていた、といいます」

 先の小林氏はそう語る。

「また、角栄は一度“ノー”と言われたらネチネチ深追いしたりはしないので玄人筋に好まれた。“政治家さんは苦手だから”とやんわり拒否されたらすぐに手を引く。しかも次に会った時、“少しは政治家を好きになったかい?”なんて冗談を飛ばすので、お互いに気まずくなることもないのです」

 旅館を訪れた際、女中から女将まで、分け隔てなくご祝儀を配っていたとのエピソードは前述したが、それは芸者遊びをした時も同様だったという。

「宴席の度に秘書を通じて女将さんに数十万円を渡していたといいます。“仲居さんや板場の連中で分けてくれ”と言付けて渡すわけです。そんなことをされてうれしくない人がいるはずもなく、皆、“われわれにまで気を使うなんてスゴイ人だな”となるのです」(同)

「1958年、初の1万円札が発行された時、流通する前のその新札を料亭でふるまった、と聞いたことがあります」

 そう明かすのは、先の佐藤氏である。

「同席した芸者の話によれば、田中派ご用達の赤坂の高級料亭で、いつものように大広間で酒を飲んでいたところ、角さんが“今度出される新しい1万円札だぞ”と言って皆にそれを見せだしたそうです。芸者たちは当然、“見せて見せて”と寄ってきて、角さんは“もってけもってけ”と答える。あの性格ですから、配った新札の枚数は100枚はくだらないはずです」

 金の力で権力をつかみ、その出所を追及されて総理の座を手放すことになった角栄。そこにも、女性に対する彼の“情”があった。

「金銭問題が連日国会で取り上げられる中、佐藤昭さんにも野党の追及が伸びそうになっていた。角栄さんは“彼女が国会で尋問されるのは忍びない”として、総辞職を決断。結果的に彼女を守ったといわれているのです」(元番記者

 絶大な権力を手中にした後も、角栄は自らの流儀を曲げなかったのである。

#田中角栄(「カネと女」の流儀)

d1021.hatenadiary.jp

#田中角栄インドネシア石油=トヨタ石油・中山素平/神谷正太郎/田中清玄・元興銀常務玉置修一郎「300億円分の利付債を買ってもらいました」)

d1021.hatenadiary.jp

#政界再編・二大政党制