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「もはや対処が1日遅れたら山一は生き残れない。日銀特融しかない」

日本銀行法第25条(現在は37条と38条)に規定された特別融資だ。日銀特融の仕掛け人が、ほかならぬ中山素平だった。蔵相の田中角栄にこの伝家の宝刀を抜かせるための氷川寮会談である。

赤坂にある日銀の迎賓館氷川寮に、大蔵省と日銀、それに山一證券のメインバンク首脳が集結した。参加メンバーは蔵相の田中をはじめ、大蔵事務次官佐藤一郎、銀行局長の高橋俊英、財務調査官の加治木俊道、日銀副総裁の佐々木直。そこへ金融界から興銀の中山、三菱銀行の田実渉、富士銀行の岩佐凱実という3頭取が加わった。

メインバンクが山一證券を救済する前提として、日銀特融を引き出したい。それが中山の狙いであり、田中がその作戦に乗ったといえる。

「君のところで山一に200億円ほど無担保で出してくれんか」

蔵相の田中が興銀の中山に向かって会議の口火を切ると、一呼吸おいて中山が答えた。

「それは、できなくはありません。しかし、その場合、私は頭取を辞めなければなりません」

戦前1927年の金融恐慌の際、日銀は安田銀行(のちの富士銀行)や台湾銀行へ特別融資を実行したが、株式や債券を担保にとっていた。無担保融資となれば、初の試みとなる。

これまで書いてきたように、戦後、特殊銀行から民間の普通銀行に改組した興銀では、資金調達の手段として債券の発行を認められた。それが「ワリコー」や「利付債」だ。

仮に民間の興銀が保証のない無担保融資をすれば、金融機関としての信用を失う。債券の買い手がいなくなるというのが、中山の言い分だ。

「いっそのこと、一時証券取引所をクローズし、その間にゆっくり対策を考える手もあるのではないでしょうか」

三菱銀行頭取の田実が中山にそう助け船を出した。すると、会議室に田中の怒声が轟いた。

「お前はそれでも頭取か。ゆっくりとは、なんだ」

会議室は静まり返り、膠着状態に陥った。そのまま時計の針が進んだ。すっかり夜が更け、ついに針は11時5分を指した。そのときおもむろに田中角栄が言った。

「やはり25条の発動しかないだろうな」

田中が日銀副総裁の佐々木に向けたこの一言で、歴史的な日銀特融が決定した。日銀特融による山一證券の救済という決断の顛末である。

#田中角栄日銀特融山一證券救済)

'73年と'79年の2度の石油危機に見舞われた日本は、'80年代に入り、米国との貿易摩擦に苦しんだ。ここから日本の社会は、大きく変貌していったといっていい。

その変化は、英米からもたらされた。英国の総選挙で保守党を勝利に導いたマーガレット・サッチャーが'79年5月、首相に就き、米国では明くる'80年11月に、共和党ロナルド・レーガンが、現職大統領の民主党ジミー・カーターを選挙で打ち負かして大統領になる。

「鉄の女」と映画俳優ーー。英米のツートップの政策により、欧州やアジアの先進各国における経済のスタイルががらりと変わった。それまでの公的な規制を取り払い、民間の市場競争原理を導入しようとした市場開放、規制改革がそれだ。新自由主義と呼ばれる新たな潮流が、先進国に浸透していった。

日本もむろん、この英米の政策に呑み込まれた。それを受け入れたのが中曽根康弘である。

高度経済成長期に目覚ましい産業の発展を遂げ、対米輸出による貿易黒字を膨らませた日本に対し、米国は内需の拡大と日本市場の開放を迫った。中曽根は「ロン」「ヤス」と呼び合った米大統領レーガンと歩調を合わせ、それまで行政が担ってきた公的分野の民間開放を推し進めた。

'80年代の中曽根政権は「日本国有鉄道」(国鉄)、「日本専売公社」(専売)、「日本電信電話公社」(電電)の3公社に加え、郵政省による「郵政事業」、大蔵省による「造幣事業」と「印刷事業」、林野庁による「国有林野事業」、通商産業省による「アルコール専売事業」の5現業の民営化を目指した。実際、中曽根政権下で'85年に電電公社日本電信電話(NTT)となり、'87年には国鉄がJR7社に分割民営化された。

特殊銀行だった興銀は、こうした公的な機関との取引が盛んだった金融機関である。玉置が説明してくれた。

「たとえば旧国鉄なんかは興銀が社債の受託をしてきました。昔は受託する銀行がなければ、事業会社は社債を発行できませんでしたから、国鉄なども興銀がそこを引き受けていたのです。国鉄時代の債券の7~8割を興銀グループで受託してきた。ですから、国鉄に対する影響力はけっこうあったと思います」

興銀には証券部があり、鉄道会社などの債券を受託してきたため、国鉄にも幅を利かせてきたのだという。

もっとも中曽根が進める民営化には、意外な壁もあった。それが、田中角栄の率いる木曜クラブを中心とする自民党族議員たちだ。田中自身、建設や運輸、郵政の大物族議員であり、国鉄電電公社の主流派幹部には、田中のブレーンが数多くいた。

そうした両社の主流派幹部は、もともと民営化に反対だったが、民営化は抗しきれないと見るや、主導権を握ろうとした。そして田中角栄が彼らの後ろ盾になってきたのである。玉置が言う。

「ソッペイさんはそれで困ったことがありました。角さんは、電電公社の技師長だった山口(開生)さんを新たなNTTの社長にしようとしたのです。電電公社として、プロパー幹部の内部昇格を望んだわけです。その山口さんの応援団長が角さんでした。ところが、土光さんや中山さんは真藤(恒)さんを推していた。それでぶつかったわけです」

電電公社民営化を推進した真藤恒NTT初代社長

真藤は石川島播磨重工業の社長を務めてきた土光の後輩にあたる。それだけに双方譲らなかったようだ。玉置が続ける。

「石川島播磨は第一勧銀がメインバンクになっていたけれど、事実上の主力行は興銀でした。その意味からしても真藤さんを社長にしようとしたのかもしれません。真藤さんを引っ張り出してきたのが、ソッペイさん自身だった。ソッペイさんは、新しい血を入れなきゃだめだ、と頑として譲らなかったのです」

田中角栄は100人を超える自民党最大派閥を率い、闇将軍と恐れられてきた。中曽根政権の発足当時は「田中曽根内閣」と称されたほど影響力を行使してきた。が、その闇将軍も、この頃になると往年の力に陰りが見えていた。電電公社の民営化や国鉄改革は、子飼いの竹下登金丸信田中派から抜けた時期と重なる。玉置の述懐。

「あの頃、角さんはしょっちゅう興銀にやって来ていました。NTTの社長人事でなんとかソッペイさんを説得しようと試みていたのでしょう。たまたまその帰りのエレベーターで角さんと鉢合わせしたことがありました。角さんは興銀にやって来ると、ソッペイさんの部屋でオールドパーを飲むのですが、あとからソッペイさんに聞くと、そのときはボトル1本半も飲んだといいます。酔っぱらってソッペイさんに必死で訴えていたのだと思います。けれど、最後には折れざるをえませんでした」

真藤恒は最後の電電公社総裁となり、そのままNTTの初代社長に就いた。会長にもなった。だが、そこへリクルート事件が起きる。そしてバブル景気の幕が開けた。

#田中角栄(電信電話公社民営化・山口開生技師長・真藤恒総裁→NTT初代社長)

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#田中角栄インドネシア石油=トヨタ石油・中山素平/神谷正太郎/田中清玄・元興銀常務玉置修一郎「300億円分の利付債を買ってもらいました」)

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#政界再編・二大政党制