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政府が5年間で43兆円をかけて防衛力を抜本的に強化することを決定してから16日で1年となります。相手のミサイル発射基地などを攻撃できる「反撃能力」に活用するミサイルの配備を急ぐ一方、円安や物価高で価格が上昇している防衛装備品があり、計画どおりに強化を進められるかが課題となります。

目次
安全保障関連の3文書 防衛力強化に5年間で43兆円

“反撃能力”に活用の国産ミサイル 配備を1年前倒しへ

安全保障関連の3文書 防衛力強化に5年間で43兆円
政府は去年12月、「反撃能力」を保有することなどを盛り込んだ安全保障関連の3つの文書を決定し、5年間で43兆円を投じ防衛力の抜本的な強化を進めることになりました。

この1年、「反撃能力」に活用するミサイルの配備を急ぎ、射程を伸ばす改良を進めている国産の「12式地対艦誘導弾」について、木原防衛大臣は15日、当初の計画から1年前倒しし2025年度から配備することを発表しました。

また、アメリカから購入する巡航ミサイル「トマホーク」も半数の200発を1年前倒しし、2025年度から配備する予定です。

その一方で、防衛装備品の中には円安や物価高の影響で価格が上昇しているものがあります。

例えば陸上自衛隊のCH47輸送ヘリコプターは、おととしまでの5年間は平均で1機76億円でしたが、来年度予算案の概算要求では2倍以上の185億円となっています。

こうした価格の上昇や、財源の確保に向けた増税の開始時期が決まらない中、計画どおりに防衛力の強化を進められるかが課題となります。

木原防衛相「効率化を徹底 計画の範囲内で防衛力強化」
木原防衛大臣閣議の後の記者会見で「防衛力の抜本的強化の実現に向けて取り組みを1つ1つ着実に進めることができた。円安や物価高による装備品の価格の上昇への対応が課題だが、いっそうの効率化や合理化を徹底することで、計画に定められた金額の範囲内で必要な防衛力の強化を行っていく。国民の理解をしっかりと得られるよう丁寧な説明やわかりやすい情報発信を心がけていきたい」と述べました。

“反撃能力”に活用の国産ミサイル 配備を1年前倒しへ
木原防衛大臣は、相手のミサイル発射基地などを攻撃できる「反撃能力」に活用する国産のミサイルについて、2026年度からとしていた配備を1年前倒しすることを明らかにしました。

木原防衛大臣は15日の閣議のあとの記者会見で「反撃能力」に活用する開発中の「12式地対艦誘導弾」の改良型について、企業側との調整がついたとして、2026年度からとしていた配備を1年前倒しすることを明らかにしました。

木原大臣は「厳しい安全保障環境を踏まえ、前倒しは実戦的な『スタンド・オフ・ミサイル』による防衛能力を早期に獲得しなければならないという切迫感を具現化したものだ」と述べました。

「反撃能力」に活用するミサイルをめぐっては、アメリカから購入する巡航ミサイル「トマホーク」についても、半数の200発を1年前倒しし2025年度から配備する予定です。

防衛力強化に向け各地で動き
防衛力の抜本的な強化に向けた動きは各地で出ています。

1.弾薬庫の増設

安全保障関連の3つの文書では、自衛隊が戦いを継続する能力を確保するためとして弾薬庫を増設する方針が示され、防衛省はおよそ10年後までに全国で130棟程度を新たに整備するとしています。

このうち、大分市にある陸上自衛隊大分分屯地では大型の弾薬庫2棟を増設する計画で、先月29日に工事に着手しました。

防衛省は大型弾薬庫について、「反撃能力」として使われる射程の長いミサイルも保管できるとしていますが、具体的にどのような弾薬を保管するかについては「自衛隊の能力や運用が推察される」として明らかにしないとしています。

また、青森県むつ市海上自衛隊大湊基地でも大型弾薬庫2棟を新たに整備する計画で、ことし6月から工事を行っています。

このほかに弾薬庫の整備場所として明らかにしているのが、▽宮崎県えびの市陸上自衛隊えびの駐屯地と▽鹿児島県奄美市の瀬戸内分屯地、▽沖縄市の沖縄訓練場の合わせて3か所です。

このうち沖縄訓練場については、多くの弾薬や燃料などを集積する補給拠点として整備するため、現時点で5棟の弾薬庫を設置する計画です。

また、火薬庫の整備に適しているか調べるため、北海道の▽多田分屯地、▽近文台分屯地、▽沼田分屯地、▽足寄分屯地、▽日高分屯地、▽白老駐屯地のほか、▽京都府の祝園分屯地と▽広島県呉基地の合わせて8か所で調査を行うとしています。

このほかの設置場所については検討中としていて「示すことができる情報については、関係自治体や住民にしっかりと説明をする」としています。

防衛省は一部で住民への説明を始めていて、このうち先月大分市で開いた説明会では、住民から「射程の長いミサイルが保管されれば、攻撃される危険が増すのではないか」などと不安の声が上がりました。

2.“民間空港”で戦闘機の離着陸訓練

安全保障関連の3つの文書では、有事に対応するためとして空港や港の利用を拡大する方針も示されていて、先月には航空自衛隊の戦闘機が4つの空港で訓練を行いました。

訓練は、自衛隊の基地が攻撃を受けて使えなくなったことを想定して、▽大分空港と▽岡山空港、▽鹿児島県の徳之島空港奄美空港で行いました。

大分空港
このうち、大分空港では先月13日、福岡県の築城基地に所属するF2戦闘機4機が着陸して旅客機と同じ燃料を給油したあと離陸しました。

また、同じ日には徳之島空港でも那覇基地に所属するF15戦闘機4機が滑走路に着陸したあと、すぐに離陸する「タッチアンドゴー」を行いました。

民間機が主に利用する“民間空港”で、自衛隊の戦闘機が有事を想定して離着陸訓練を行ったのは初めてです。

自衛隊の戦闘機は北海道と青森、茨城、石川、福岡、宮崎、沖縄の7道県にある基地に配備されていますが、有事ではミサイル攻撃を受け、滑走路が破壊されるなどして離着陸できなくなる可能性があります。

一方、国内には空港がおよそ100あり、このうち戦闘機が安全に離着陸できる長さ2000メートル以上の滑走路をもつ“民間空港”がおよそ60あります。

今回の訓練は、北朝鮮弾道ミサイルの発射を繰り返し、中国が軍事力の増強を進める中、有事を念頭に使える空港を1つでも増やしたいというねらいがあるとみられています。

防衛省は、先月4つの空港で訓練を行ったのは関係自治体の理解が得られたためとしていて、ほかの空港についても理解が得られれば訓練を行いたい考えです。

一方で、空港での訓練をめぐっては住民から懸念の声も上がっていて、大分空港の周辺では先月13日に訓練に反対する集会が開かれました。

財源確保に向けた増税 開始時期が決まらず
防衛力の抜本的強化の財源確保に向けた増税は、開始時期が決まっていません。

自民・公明両党は、去年決定した税制改正大綱で、法人税所得税、たばこ税の3つの税目で増税などの措置を複数年かけて実施し、2027年度に1兆円余りを確保するとしていました。

一方、増税の開始時期は「2024年以降の適切な時期」とし、ことし改めて与党で議論して決めることにしていたため、ことしの税制改正議論では増税の開始時期が焦点の1つとなりました。

自民党は当初、再来年・2025年か、3年後の2026年から実施する2つの案を軸に検討する方針でした。

一方、公明党内には来年の所得税減税の実施前に増税の開始時期を決めるのは一貫性を欠くと受け止められ得策ではないとして、開始時期の決定に慎重な意見が大勢でした。

さらに、今月にかけて自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる問題が次々と明らかになり、自民党内でも「政権が吹っ飛ぶような話が出ている中で決められないのはしかたがない」という声が急速に広がっていきました。

こうした状況を踏まえ、岸田総理大臣は自民党の宮沢税制調査会長にことしは決定しない意向を伝え、結局、開始時期の決定は見送られました。

宮沢氏は記者会見で「増税というものはそれなりに政権の力が必要だが、残念ながら昨今の政治状況はかなり自民党にとって厳しく、ことしは決定しないことになった」と述べました。

これによって増税の開始時期は2026年以降となる公算が大きくなっています。

装備品の導入をめぐっては、防衛省の担当者が「ここまでとは想定外だ」という円安や物価高の影響が懸念されています。

政府は、まとめ買いなど効率化・合理化を図り43兆円の範囲内で進めていく方針ですが、1年前に必要だとして掲げた強化策はすべて実現できるのか。

実施時期は決まっていなくても財源の一部を増税によって確保しようとしているだけに、政府には説得力のある説明が求められます。

#安保関連3文書(1年・「反撃能力」ミサイ配備急ぐ)

岸田総理大臣は、日本を訪れているマレーシアのアンワル首相と会談し、安全保障分野での連携を強化するため、OSAという新たな支援の枠組みを通じて、救難艇やドローンを供与することで合意しました。

会談は、日本とASEAN東南アジア諸国連合の特別首脳会議の開幕を前に、16日午前、総理大臣官邸で行われました。

冒頭、岸田総理大臣は「世界が歴史的な転換点にある中、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を維持・強化し、人間の尊厳が守られる世界を確保するため協力を強化していきたい」と述べました。

そして両首脳は安全保障分野での連携を強化するため、OSAという同志国の軍に防衛装備品などを供与する新たな枠組みを通じて救難艇やドローンを供与することで合意しました。

また両国の関係を「包括的戦略的パートナーシップ」に格上げすることを確認し、クリーンエネルギーへの移行や経済安全保障、人的交流など幅広い分野での協力をいっそう進めていくことで一致しました。

#日馬(アンワル首相・OSA=政府安全保障能力強化支援・難艇/ドローン供与合意・「包括的戦略的パートナーシップ」格上げ確認・岸田首相)

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#OSA=政府安全保障能力強化支援(マレーシア・救難艇/ドローン供与方針固める)

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#日本ASEAN防衛相会合(木原防衛相「力や威圧による一方的な現状変更を許さない安全保障環境をつくるため、防衛装備品などを提供する新たな枠組みOSAなどを活用し、日本とASEANで防衛協力を継続・拡充するなど、協力関係を新たな段階に進める必要がある」「専守防衛のもとで行うものであり、他国に脅威を与えるような軍事力を持つことは意図していない」)

#下山伴子「日本では与野党も右も左も全て同じ穴のムジナ。国益と真逆の方向に動いています。」

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#下山伴子「長い鎖国時代の後にカラー革命と富国強兵でシオニスト帝国主義🇬🇧🇺🇸の事実上の植民地と奴隷兵にされてしまい、大戦で鉄砲玉に利用され、戦後は3S洗脳政策で国際世界の現実から切り離されて、更に都合良く利用されています」

今なお、待望論が沸き起こる田中角栄元総理が亡くなって、きょうで30年です。日中国交正常化を成し遂げた田中氏ですが、その正常化交渉をめぐる貴重な肉声が見つかりました。

TBSの倉庫に眠っていた、およそ50年前のラジオの取材テープ。ここに、日中国交正常化を成し遂げた田中角栄元総理の肉声が残っていました。

田中角栄 元総理
「私は日中両国が正常な状態になることが望ましいということは、日本人全てが考えていると思います。そういう機運も熟してきたと思います」

1972年7月、日本列島改造論を唱え、第64代内閣総理大臣に就任した田中角栄元総理(当時54歳)。田中元総理がまず取り組んだのが、日中国交正常化でした。


就任からわずか3か月で現職の総理大臣として初めて中国へと向かった田中総理。

記録映画(北京空港 1972年9月25日)
周恩来首相と田中首相の間に初の固い握手が交わされる」

歴史認識や戦争賠償、尖閣諸島など、今も残る日中関係の論点が山積する中、交渉は難航を極めました。その交渉記録は長年、「極秘」と秘密指定されてきましたが、会談を前に行われた交渉をめぐる両首脳の肉声を記録した音源が見つかったのです。

周恩来首相(当時)
「双方が努力し十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで、中日国交正常化は必ず実現できるものと心から信じています」

“小異を残して大同を求める”国交正常化を優先し、尖閣諸島の領有権問題などを「棚上げ」するとの主張を口にした周恩来首相。一方、その後の交渉を厳しいものとした戦争責任を巡る田中総理の発言も残されていました。

田中角栄総理(当時)
「過去数十年にわたって、日中関係は遺憾ながら不幸な経過を辿って参りました。この間、我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことに、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」

中国側は田中元総理の「ご迷惑」という言葉に、謝罪の言葉としては余りにも軽すぎると反発しましたが、その後、4度にわたる首脳会談を経て、日中国交正常化は実現しました。


総理在任2年5か月。金脈問題などで辞任した田中角栄元総理ですが、今も高い人気を誇っている理由について、専門家は「国民目線の政治家だった」と表します。

上武大学 田中秀臣教授
「今の日本にとって、必要な政治家だと思います。強いメッセージ性と、国民の生活に何が足りないか、そういった問いに答えてくれる政治家」

田中角栄 元総理
自由民主党がつぶれても、やむを得ん。自由民主党なんて潰れたって、日本が潰れなければいいんだ。政党の看板の掛け替えはききますが、国家民族の看板の掛け替えはきかない」

田中氏が亡くなってきょうで30年。時代は変われど、国民に寄り添う政治が今も求められています。

 昭和の名宰相・田中角栄が亡くなったのは1993年12月16日のこと。毀誉褒貶が激しかった田中だが、国民を広く魅力したその語り口は、今もなお多くの人々の心に残っている。政治評論家の小林吉弥氏はこう語る。

田中角栄は54歳の若さで首相に就任しました。昨今の世襲議員と違って叩き上げだから、庶民の幸せを間近に見てきた。若手議員に『バカ野郎、どこを見て政治をやっている!』とよく怒鳴りつけたのは国民の幸福を最優先したからです。

 33本もの議員立法を成立させた類まれな実行力の源泉は、『自分の言葉で全力で話せ。そうすれば、はじめて人が聞く耳を持ってくれる』という信条です。叩き上げで政界の頂点まで上り詰めた田中の言葉は、人間の本質をまっすぐに突いてくるものばかりなのです」

 没後の30年の今、聴く者を奮い立たせる言葉の数々を振り返る。

「我と思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。出来ることはやる。出来ないことはやらない。全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上」(1962年、44歳で大蔵大臣に就任した際の官僚たちへの挨拶)

「議員は1人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員1人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります」(1947年、初当選から3か月後の衆議院本会議にて)

「賢者は聞き、愚者は語る。今日から賢者になる。若い連中の話も聞く。何でも言ってこい」(1985年、赤坂の料亭「川崎」にて。脳梗塞で倒れる前日に発した、公に残した最後の言葉)

「いい政治というのは、国民生活の片隅にあるものだ。目立たずつつましく、国民の後ろに控えている。吹き過ぎていく風でいい」(早坂茂三秘書に語った言葉)

「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったとき、怖いなあ」(藤井裕久・元衆議院議員に語った言葉)

 よく言われる「脱官僚」、「政治主導」ですが、実は簡単にはいきません。前例や既得権を崩すには、相当なエネルギーが必要ですが、オヤジ(田中角栄)は労を厭わなかった。

 官僚は基本的に賢く、相当な勉強もしています。当然、オヤジの範疇外の議論もある。ただ、オヤジは重要な政策立案では、まず自分の考え、イメージを披露し、官僚の意見を拾う、そこからディスカッションするスタイルでした。そうした話し合いの繰り返しで、政策を詰めていった。

角栄は総理を目前にした通産大臣時代も、官僚と議論を戦わせるために、朝2時に起きて資料を読み込み、秘書官が私邸に迎えに行く頃には新聞全紙を読み終えて陳情をこなしていたという〉

 オヤジの「聞く力」は最強でしたね。的外れな質問をしても叱られることはなく、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ」と言って下さった。だから官僚たちも自分の意見をはっきり進言できる。専門分野の知識は当然、官僚のほうが上でしょうが、官僚が口憚って言えない知識をどんどん引き出している感じでした。

 官僚だけでなく、実務を担当する役人への気遣いもありました。役所の次官、課長同席で話を詰める場合、基本的には序列順に話を聞きますが、オヤジは「現場を知る課長のほうが話が早い」と課長を優先することもあった。従来の慣習より合理的な実務をする政治家でしたね。

〈政治家は、官僚をどう使いこなすかで政策実行能力が決まる。角栄は各省の官僚の顔と名前、入省年次、家族構成まで暗唱できた〉

 官僚は前例主義にこだわり、オヤジが政策を提案しても、前例や法令をタテに反論することが多々あった。だが、オヤジはそれを許さなかった。

「前例でできないのなら新しい法をつくれ」「立ちはだかる法令があるなら改正したほうが国民のためだ!」と命じるわけです。33本の議員立法に携わり、法律づくりに精通していたオヤジにそう言われたら、官僚は動かざるを得ない。

 そうして大蔵省(現・財務省)の既得権を打ち破ったのが道路特定財源でした。それまで大蔵省が一手に集め、使途を決めていた税の使い途を独占されないよう「ガソリン税」という大蔵省所管外の財源をつくり、使い途を独占されない方法を編み出したのです。

〈朝賀氏は「岸田政権は政策以前に、“何をしたいか”が国民に伝わっていない」と苦言を呈す〉

 オヤジは官僚を使いこなした。そして国民には「できないことはある。だが、できることはやる!」と訴えかけました。

 自分の思いを率直に投げた。だからこそ、国民も官僚も納得したのでしょう。

 総理の器、リーダーの資格には、構想力、決断力、実行力、そして人間力の4つの力が必要だと考えていますが、田中さんはそれらを十分に備えた方でした。それを示すのが「日本列島改造論」です。

 本にまとめるにあたって、私を含めて15人のゴーストライターがチームを組み、最初に田中さんからレクチャーを受けた。田中さんは1日8時間で4日間、全く資料なしでしゃべるんです。頭の中には、これからの日本の国づくりをどうするかが完全に整理されていた。それは通産大臣になる前の25年間、国土開発を中心にした田中さんの政治家としての努力の結晶でした。

 列島改造論には、いろいろ新しいアイデアが入っていました。たとえば地方に25万人都市をつくって東京一極集中を変えていくとか、過疎を解消するために工場誘致を都市の沿岸部だけでなく、地方の内陸部に行って就業機会を新しくつくる。産業再配置で出稼ぎに行かなくても通勤できるようにしようとか。

 従来の国土開発において生じていた人口の都市集中や地方との所得格差、出稼ぎによる家族の分断、公害といった問題に対する田中さんの処方せんが列島改造論でした。ベースにあったのは、日本列島どこに住んでも一定以上の生活ができるようにする「一億総中流」の思想だと思いますね。

角栄の列島改造論は実行に移され、新幹線、高速道路、港湾などの物流ネットワークの整備が進み、地方に大規模工業団地が次々に建設された。半導体工場が集中的に誘致された九州は「シリコンアイランド」と呼ばれ、地方の所得も大きく伸びて、一億総中流社会が実現したかに思われた〉

 公共事業に資金が相当投入されて新幹線、道路網の整備は進みましたが、東京から地方へ人の流れが変わったかといえば、逆に「ストロー現象」でより東京集中になった。東京の人口が1400万人を超えたのはつい最近です。産業再配置もいったんは地方に工場が進出したが、1980年代後半にはグローバル化海外移転が急加速し、産業空洞化と呼ばれる現象が起きた。

 田中さんが目指した東京一極集中を是正し、地方に活力を与えるというテーマは、今まさに日本が直面している課題でもあります。列島改造論では産業再配置という処方せんが書かれたが、それは現在も通用するものだと思います。

 そこで一つ加えたいのは外国企業の位置づけ。日本は治安がいいし、労働力の質が高く、数も多い。投資環境としては決して悪くない。現代日本では、国内企業の工場再配置だけではなく、海外の然るべき企業を日本に誘致することを含め、日本列島全体を“シリコンバレー化”する田中さん的な発想が必要でしょう。

 田中さんは選挙の時だけでなく、全国各地で街頭演説をやった。大勢の聴衆が集まるわけですが、われわれ秘書官が用意した原稿は3分の1も使われない。ご自身の知識、ご自身の発想でしゃべり、それが的を射ていた。行く先々の地域のニーズが完璧に頭に入っていたからです。目白の田中邸には毎朝、政治家だけでなく、いろんな業界や市民が陳情に訪れていました。

 そこでも田中さんは相手の要望を聞き流さず、どの業界や地域がどんな問題を抱えているか、何に困っているのか、ポイントを的確に把握、整理し頭に叩き込んでいた。

〈1993年の角栄の死は日本経済の「失われた30年」のはじまりと重なる。一億総中流は一時の夢と消え、日本社会は格差が広がり、少子高齢化で企業の国際競争力は低下した。高度成長期と全く違う社会・経済環境の中で、財源もない。角栄ならどこから手をつけるか〉

 やはり20~40歳代の中堅世代、社会の実際の担い手が躍動できる状況を作り出していくことがポイントになったのでは。その世代が元気にならないと、日本は元気にならない。田中さんは25万都市構想で具体化しようとした職住近接の環境づくり等、社会を担う中堅世代が活躍できることを政策的に優先しようと考えていました。高齢化が進んだ現在はなおさらです。

 財源については、「政策のアイデアが優れ、国民も“これで行こう”というムードになった時には、一つ負担が増えても、さほど重荷に感じないものだ」と田中さんが言ったことがある。

 たとえば、田中さんが議員立法でつくったガソリン税道路特定財源ですね。当時の日本の交通インフラの中心は鉄道で、道路はガタガタ。これではダメだ、一刻も早くやらなきゃいけないと、ガソリンから税を取って有料道路に優先的にお金を使う仕組みをつくった。

 あの時、道路は無料公開の原則があるとの反対論もあったが、田中さんは「インフラからも料金を取ってやっているケースがある」とヨーロッパの例を挙げ、「2つの地域を結ぶ1本目は無料道路、料金を払いたくない人はその道路を使えばいい。2本目、3本目の道路は有料にしても何の問題もない」と。それは説得力ありますよ。まさに政治家の議論の原点でしたね。おかげでそれまで数百億円単位だった道路予算が、その後、数兆円規模へと二桁増えた。

 ビジョンに説得力があれば、国民に負担してもらうことは可能なんです。

角栄は『日本列島改造論』の結びで目指す日本人のライフスタイルをこう描いている。『二十代、三十代の働きざかりは職住接近の高層アパートに、四十代近くになれば、田園に家を持ち、年老いた親を引き取り、週末には家族連れで近くの山、川、海にドライブを楽しみ、あるいは、日曜大工、日曜農業にいそしむであろう』。国民に具体的な「将来の夢」を示すことができた政治家だった〉

 田中さんは課題に対して逃げるのではなく、全力投球した。われわれにも、「受験秀才は、難しい問題は避けて易しい問題から解き、残った時間で難問に挑戦する。点数を上げて合格するためにはそれでいい。しかし、社会人になったらそうはいかない。難しい問題に直面しても避けて通れないし、対応していかなくてはならない。だから受験秀才ではいかんよ」と仰った。政策を担うわれわれ官僚に対する忠告であったと思います。

 岸田首相が防衛費倍増を決めたのは、明らかに米国の要請によるものだと私は見ている。安全保障を米国に委ねる日本にとって「拒絶」の選択肢はなかったはずだ。

 世界各地で起こる紛争介入は、もはや米国だけでは手に負えない。だからこそ、日本にも負担を求めてきた。ならば、日本もものを言えばいい。いま再び、長年の対米従属から脱し、独自外交に舵を切る好機が訪れているのだ。

 振り返れば、歴代日本総理のなかで、米国依存からの脱却に本気で取り組んだのは田中角栄しかいない。当時は米ソ冷戦の真っ只中で、第4次中東戦争オイルショックを招いた。まさに、ロシアのウクライナ侵攻を巡る米露対立の激化、イスラエルのガザ攻撃で中東が不安定化している現在の国際情勢と非常に似ていた。

 あの時、角さんが展開した資源外交は、これからの日本外交が取り得る一つの針路を示唆していると考えている。

角栄は「無資源国」の日本が石油輸入のほとんどを欧米の石油メジャーに依存していることに強い懸念を抱いていた。通産大臣時代にはサウジなどで油田の自主開発に力を入れ、首相に就任すると、米国メジャー依存を脱するため全方位の資源外交に乗り出し、1973年9月にフランス、英国、西ドイツ、ソ連を訪問し首脳外交を展開した〉

 角さんはフランスと油田の共同開発、英国では北海油田への開発参加、西ドイツとも「日独資源問題合同委員会」の設置など具体的な事業計画を次々に決めていった。とくにフランスとは、石油だけではなく、ニジェールでのウラン鉱共同開発や、米国に全面依存していた濃縮ウランの加工委託まで表明した。まさにエネルギー面で米国からの自立を図ろうとした。

 ちょうどこの欧州歴訪中に第4次中東戦争が勃発。エネルギーの輸入先の多角化を図ろうとする角さんの先見の明を示したが、これが「田中は反米だ」と米国を怒らせることになった。

中東戦争が激化するなか、日本はイスラエル支持の米国と、アラブの石油産出国との板挟みになった。角栄は来日した米国のキッシンジャー国務長官から「アラブ不支持」を求められるが意に介さず、直後に副総理の三木武夫を中東に派遣。OAPECは日本を「友好国」と認定し石油供給途絶は避けられた〉

 これがキッシンジャーの逆鱗に触れた。角さんは米国離れ政策に警告を発する米政権の意向を無視できず、フランスへのウラン濃縮加工委託を撤回。釈明のため三木副総理を米国に派遣した。

 それでも、独自資源外交は諦めなかった。インドネシア訪問時は激しい反日デモに遭うが、液化天然ガス開発やロンボク石油備蓄基地建設を決めた。デモの背後では米国が動いていたとされる。

 ここで、米国は本気になった。キッシンジャーに続いてインガソル国務次官補が東京で会見し、日本の対米外交の姿勢を批判、内定していたニクソン大統領の訪日と昭和天皇の米国訪問は中止にすると恫喝してきた。

 さすがの角さんもこれには参るしかなかった。アラブ諸国と袂を分かって米国協調に路線を転換、大平正芳・外相がワシントンの会議で、対米依存の資源政策に軌道修正すると表明せざるを得なかった。当時の米国は東西冷戦下の超大国で、日本が太刀打ちできる相手ではない。だが、その後も角さんはブラジル、カナダ、オーストラリアを訪問し、ウラン開発の協議をしている。「エネルギーの自主独立が国益だ」との信念を持っていたから、米国から叩かれても諦めなかったのだ。

 このタフさこそ、現代の為政者に求められる。

#田中角栄(没後30年)

ここまでは、問題を調べ始めてから、四年ほどでわかったことでした。

つまり「戦後日本」という国が持つ大きな歪みの根底には、日米のあいだで結ばれた「法的な関係」が存在する。しかしその姿が、日本人にはまったく見えていない。

最大の問題は、そもそも1952年に日本の占領を終わらせたサンフランシスコ平和条約が、じつは普通の平和条約ではなかったことだ。

たしかにそれは、「政治」と「経済」においては占領状態を終わらせた「寛大な」条約だったが、逆に「軍事」に関しては、安保条約と連動するかたちで日本の占領を法的に継続し、固定するためのものだった。

その結果、「戦後日本」という国は21世紀になってもなお、

「軍事面での占領状態がつづく半分主権国家

であり続けている──。

多くの著者のみなさんとの共同研究により、そのことはほぼ証明できたと思っています。これまで精神面から語られることの多かった「対米従属」の問題を、軍事面での法的な構造から、論理的に説明できるようにもなりました。

けれども最後までどうしてもわからなかったのは、

「なぜ日本だけが、そこまでひどい状態になってしまったのか」

ということでした。

「戦争で負けたから」という答えは明らかな間違いです。

世界中に戦争で負けた国はたくさんある。けれども現在の日本ほど、二一世紀の地球上で、他国と屈辱的な従属関係を結んでいる国はどこにも存在しないからです。

そのことは第三章で紹介した、イラクが敗戦後にアメリカと結んだ地位協定の条文を読めば、誰にでもすぐにわかってもらえるはずです。

そんなある日、

「密約の歴史について書いてくれませんか」

という出版社からのオファーがあったので、よろこんで引き受けることにしました。以前からずっと、調べてみたいと思っていたことがあったからです。

じつは戦後の日本とアメリカのあいだには、第五章で書いた、

裁判権密約」
「基地権密約」

のほかに、もうひとつ重要な密約のあることが、わかっていたのです。それが、

「指揮権密約」

です。その問題について一度歴史をさかのぼって、きちんと調べてみたいと思っていたのです。

指揮権密約とは、一言でいってしまえば、

「戦争になったら、自衛隊は米軍の指揮のもとで戦う」

という密約のことです。

「バカなことをいうな。そんなものが、あるはずないだろう」

とお怒りの方も、いらっしゃるかもしれません。

しかし日米両国の間に「指揮権密約」が存在するということは、すでに36年前に明らかになっているのです。その事実を裏付けるアメリカの公文書を発見したのは、現在、獨協大学名誉教授の古関彰一氏で、1981年に雑誌『朝日ジャーナル』で発表されました。

それによれば、占領終結直後の1952年7月23日と、1954年2月8日の二度、当時の吉田茂首相が米軍の司令官と、口頭でその密約を結んでいたのです。

次ページに載せたのは、その一度目の口頭密約を結んだマーク・クラーク大将が、本国の統合参謀本部へ送った機密報告書です。前置きはいっさいなしで、いきなり本題の報告に入っています。

「私は7月23日の夕方、吉田氏、岡崎氏〔外務大臣〕、マーフィー駐日大使と自宅で夕食をともにしたあと、会談をした」

まずこの報告書を読んで何より驚かされるのは、米軍の司令官が日本の首相や外務大臣を自宅に呼びつけて、そこで非常に重要な会談をしていたという点です。占領はもう終わっているのに、ですよ。

これこそまさに、独立後も軍事面での占領体制が継続していたことの証明といえるようなシーンです。しかも、そこに顔を揃えたのは、日本側が首相と外務大臣アメリカ側が米軍司令官と駐日大使。まるで日米合同委員会の「超ハイレベル・バージョン」とでもいうべき肩書きの人たちなのです。

「私は、わが国の政府が有事〔=戦争や武力衝突〕の際の軍隊の投入にあたり、指揮権の関係について、日本政府とのあいだに明確な了解が不可欠であると考えている理由を、かなり詳しく説明した

つまり、この会談でクラークは、

「戦争になったら日本の軍隊(当時は警察予備隊)は米軍の指揮下に入って戦うことを、はっきり了承してほしい」

と吉田に申し入れているのです。そのことは、次の吉田の答えを見ても明らかです。

「吉田氏はすぐに、有事の際に単一の司令官は不可欠であり、現状ではその司令官は合衆国によって任命されるべきであるということに同意した。同氏は続けて、この合意は日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきであるとの考えを示し、マーフィー〔駐日大使〕と私はその意見に同意した」

戦争になったら、誰かが最高司令官になるのは当然だから、現状ではその人物が米軍司令官であることに異論はない。そういう表現で、吉田は日本の軍隊に対する米軍の指揮権を認めたわけです。こうして独立から3ヵ月後の1952年7月23日、口頭での「指揮権密約」が成立することになりました。

ここで記憶にとどめておいていただきたいのは、吉田もクラークもマーフィーも、この密約は、

「日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきである」

という意見で一致していたということです。

結局その後も国民にはまったく知らされないまま、これまで60年以上経ってしまったわけですが、考えてみるとそれも当然です。

外国軍への基地の提供については、同じく国家の独立を危うくするものではありますが、まだ弁解の余地がある。基地を提供し駐留経費まで日本が支払ったとしても、それで国が守れるなら安いものじゃないか──。要するに、それはお金の問題だといって、ごまかすことができるからです。

しかし、軍隊の指揮権をあらかじめ他国が持っているとなると、これはなんの言い訳もできない完全な「属国」ですので、絶対に公表できない。

そもそも日本はわずか5年前(1947年)にできた憲法9条で、「戦争」も「軍隊」もはっきりと放棄していたわけですから、米軍のもとで軍事行動を行うことなど、公に約束できるはずがないのです。

ですから、1951年1月から始まった日本の独立へ向けての日米交渉のなかでも、この軍隊の指揮権の問題だけは、徹底的に闇のなかに隠されていきました。

この「戦時に米軍司令官が日本軍を指揮する権利」というのは、アメリカ側が同年2月2日、最初に出してきた旧安保条約の草案にすでに条文として書かれていたもので、その後もずっと交渉のなかで要求し続けていたものでした。

しかし、日本国民の目にみえるかたちで正式に条文化することはついにできず、結局独立後にこうして密約を結ぶことになったのです。

その後アメリカは、占領中の日本につくらせた「警察予備隊」を、この指揮権密約にもとづいて三ヵ月後、「保安隊」に格上げさせ(1952年10月15日)、さらにその2年後には2度目の口頭密約(1954年2月8日:吉田首相とジョン・ハル大将による)を結び、それにもとづいて「保安隊」を「自衛隊」に格上げさせ(同年7月1日)、日本の再軍備を着々と進めていきました。

#日米(矢部宏治 「指揮権密約」)

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