上川外相 米国務長官と会談 岸田首相訪米へ 緊密に連携で一致https://t.co/NnMHAFHywq #nhk_news
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就任後初めてワシントンを訪れている上川外務大臣は日本時間の13日未明、ブリンケン国務長官と会談しました。
冒頭、ブリンケン長官は「能登半島地震や羽田空港の事故に心からお見舞いを申し上げる。いかなる支援も提供する準備ができている」と述べました。
これに対し上川大臣は謝意を示した上で「世界が転換点を迎えている中、日米同盟が果たす役割はかつてないほど大きい」と述べました。
会談では、日米同盟の抑止力と対処力を一層強化するとともに、ことし3月上旬で調整が進められている岸田総理大臣の国賓待遇での公式訪問に向けて緊密に連携していくことで一致しました。
そして地域情勢についても意見を交わし中国や北朝鮮をめぐる課題に連携して対応することや、台湾海峡の平和と安定が重要だという認識を共有しました。
また、長期化するウクライナ情勢では強力な支援とロシアへの厳しい制裁を継続することや、イスラエル・パレスチナ情勢では衝突が中東のほかの地域に波及するのを防ぐため、外交努力を続けることで一致しました。
上川外相「首相訪問は連携一層深める機会に」
上川外務大臣は、訪問先のアメリカで記者団に対し「国際社会がさまざまな課題に直面する今こそ、日米の固い結束が重要だ。岸田総理大臣の公式訪問は、両国間の緊密な連携をあらゆる分野でより一層深めるうえで価値ある機会になると確信している」と述べました。
#日米(上川外務大臣「世界が転換点を迎えている中、日米同盟が果たす役割はかつてないほど大きい」・ブリンケン国務長官・会談)
#日米(NSCキャンベル・インド太平洋調整官「3月上旬で調整が進められている岸田総理大臣の国賓待遇での公式訪問は、日米同盟を発展させる上で大変重要であり、成功に向けて最大限の努力をしたい」「去年8月にアメリカで行われた日米韓3か国の首脳会談を踏まえ、今後も3か国の関係を強化させることが重要だ」・自民党麻生太郎副総裁「これまでの土台の上に関係を発展させることが必要だ」)
日本で実刑判決受け収容の米兵 米移送後に仮釈放 米メディアhttps://t.co/aWxS1WVwNT #nhk_news
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2021年5月、静岡県富士宮市で飲食店の駐車場に車が突っ込み、2人が死亡した事故では、運転していたアメリカ海軍の大尉、リッジ・アルコニス受刑者が過失運転致死傷の罪で禁錮3年の実刑判決を受け、収容されました。
アルコニス大尉を巡っては、アメリカ連邦議会の一部の議員がアメリカへの移送を日本政府に求めるようバイデン政権に働きかけていたということで12月移送されていました。
移送に関してアメリカのCNNテレビは、ハリス副大統領やホワイトハウスのサリバン大統領補佐官が関わったと報じています。
CNNは12日、アルコニス大尉の家族の話として西部カリフォルニア州のロサンゼルスにある刑務所に収監されていた大尉が、仮釈放委員会の命令によって仮釈放されたと伝えました。
#日米(米海軍大尉リッジ・アルコニス受刑者・仮釈放委員会「仮釈放」)
#日米(米海軍大尉リッジ・アルコニス受刑者・過失運転致死傷罪・禁錮3年・アメリカに移送)
「こんな不平等があるかっ」田中角栄はなぜ「北陸のたった60戸の過疎地」に「12億円のトンネル」を作ったのか…? : https://t.co/jgO4NQd8pz #現代ビジネス
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過疎地にインフラを整備しても、これからの日本ではもう維持できないのではないか……。元旦に襲った能登半島地震のあと、このような議論がネット上では巻き起こり、大きな論争となっている。
角栄は、手掘り隧道の犠牲になった源次郎の息子・広徳(現在83歳)のことをいつも気にかけていた。落成式の挨拶の最中、演台の上からこう叫んだ角栄は、進み出た広徳の手をしかと握りしめた。
広徳は40歳ごろから塩谷越山会の幹事長を任されていた。夜汽車に揺られて何度も上京し、目白の田中邸を詣で、トンネルの実現を角栄に陳情していた。
角栄と塩谷の縁は、角栄が初めて総選挙に出馬した1946年3月にさかのぼる。
雪の中、塩谷集落の隣、東山地区にある南荷頃小学校で27歳の角栄は演説会を開いたのだ。多くの住民が、雪道を歩いてこれを聴きに行った。無名の角栄は、この頃すでにあの有名な言葉をまくしたてていたという。
「谷川岳を切り崩すっ。そうすれば新潟に雪は降らなくなる。崩した土で佐渡海峡を埋めるんだ。雪は関東にも平等に降るようになる」
気宇壮大な演説は聴衆に強い印象を残したものの、支持の輪は広がらず、角栄は落選する。しかしこの時の敗北が、のちの角栄を作った。
「田中さんはまだ村長も町内会長も案内してくれない無名のときに、地下足袋にゲートル巻きで(地元の田舎を)全部歩いている。だから、後で塩谷の人が陳情に行くと『おお、小千谷の塩谷か。あの道路が大きく曲がっていて、杉が3本生えている、あの先だな』と覚えているんです」
狭く暗い隧道に日々の生活を頼っていた塩谷の住民たちは、トンネルを整備してほしいと、あの「目白御殿」を陳情に訪れる。
1954年、塩谷は小千谷市と合併し、隧道も県道に格上げされた。だが県道とは名ばかりで、裸電球のぶら下がる隧道には地下水が音を立てて漏れ出し、落盤で通行止めになることも頻繁だった。
一方、この頃から角栄は破竹の出世を遂げる。郵政大臣(1957年)、大蔵大臣(1962年)、自民党幹事長(1965年)、そして1972年には自民党総裁に選ばれ、総理大臣となった。
目白の角栄宅に塩谷の住民が陳情に行く際には、小千谷駅から夜行列車に乗り、上野駅に着くのが午前4時ごろだ。
「深夜営業の喫茶店に入る金ももったいないから、山手線に何周も乗って時間を潰し、朝7時半に目白で降りるんです。手土産といっても、餅や鯉を提げていくくらいでした。
当時、マスコミには『田中邸の庭の池の鯉は1匹数百万円』なんて書かれていましたが、デタラメですよ。小千谷や山古志の人が持って行った安い鯉が多かったんです」(前出・広井氏)
何度も目白を訪れる塩谷の人々を、そのたびに「おう、おう」と言って出迎えた角栄は、こう訝しむこともあったという。
「隧道を改良してほしい? とっくに終わったもんだと思っていたよ。まだそんなこと言っているのか」
角栄は机上のベルを鳴らし、政務担当秘書の山田泰司を呼んですぐに指示を出した。
直後、角栄はわずか2年で総理を辞し、1976年にロッキード事件で逮捕される。「金権政治家」という謗(そし)りを一身に受けたその時に、角栄は塩谷トンネルの完成にこだわるようになったのである。
同年のロッキード選挙。当時、角栄の番記者を務めていた現・新潟日報社長の小田敏三は、長岡市内の旅館で目にした角栄のようすに驚いたという。
「角さんは必死だった。毎日夕方に宿に戻ると、黄ばんだわら半紙に、辻説法をした場所、人数、どんなヤジが飛んだかまで書き出すんです。『ロッキードはどうした!』と言われた、とかね。
その時、見ると角さんの手が傷だらけで、血が出ているんですよ。握手のとき、ご婦人方の指輪が引っかかるんですね。それほど政治家になって最大の窮地、議員バッジを失うかどうかという瀬戸際だった」
小千谷の村々をまわっているときには、昼食をとった直後でも、地元のお年寄りが差し入れを持って来ると、すぐさま平らげてこう言った。
「おっ、(郷土料理の)鮭の頭と大根の煮物か。うん、うまいなっ。うちの女房は東京モンだから、何回言ってもこの味が出ないんだ。おばあちゃん、ありがとなっ」
天才的な選挙のセンスを誇った角栄だが、この時ばかりは落選の危機を相当に意識していた。しかし前述したように、そんな非常時に角栄は、塩谷の小さな隧道まで足を伸ばして「もう少しだ」と住民に語ったのである。
「普通なら、あんな小さな集落に行っている場合じゃないんですよ。でも、誰かが案内したわけでもないのに、角さんは一人でスッと隧道の入り口に行って、奥をジーッと見ていた」(前出・小田氏)
角栄は、隧道の暗闇に何を見ていたのだろうか。
角栄が塩谷トンネルの落成式に設定した1983年7月27日は、ロッキード事件で自身が逮捕されてからちょうど7年目にあたる日だった。
その日、角栄が語った言葉を、今も塩谷の人々は忘れられないという。
「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。
トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」
この演説には、角栄政治の原点があらわれているようにも思える。
よく知られた角栄の言葉に「政治は生活だ」というものがある。角栄は塩谷という辺地で、「誰のために政治家はいるのか」ということを問い直そうとしたのではないか。だからこそ、塩谷トンネルにこだわり、その落成式を、自身の逮捕と同じ日に行ったのだろう。
「塩谷は60戸しかなかったから、1戸4票としても240票にしかならない。見附市や三条市のような町場にドーンと投資したほうが、よっぽど票になるわけですよ。
それ一つ考えてみても、当時のマスコミが書いた『角栄は自分の選挙のために12億円の公共事業をやった』という批判はおかしいんだ」(前出・広井氏)
塩谷の昔からの住人はこう言う。
「トンネルがなかったら、私らは生きていかれんかった。あの時は『田んぼの畔(あぜ)まで舗装するつもりか』と笑われたよ。でもみんな必死だったんだ。角さんは貧乏人に優しい政治をしてくれた」
中越地震の後、小千谷市街の復興住宅に移った塩谷の主婦も語った。
「トンネルができる前は、子供が病気になったら熊の胆を飲ませるか、大人が総出で、雪の中を小千谷の病院まで運ばんくてはならんかった。ようやく病院に着いたと思ったら、事切れているのが普通さ。ひどいもんだった。角さんがそれを変えてくれたんだ」
角栄を「金権政治家」と切り捨てることはたやすい。しかし、地元新潟の人々は口を揃えて、それだけで角栄を語り尽くすことはできない、と言う。
「角さんにとって、『金権政治家』のレッテルは屈辱だった。『金権政治家だったら、こんな田舎に来るか』というのが、あの日の角さんの正直な気持ちだったでしょう。
批判に対して、こうも言っていた。『大事なのは理屈じゃない。生まれ育ったところに帰って来られる。そこで暮らしていける。何が悪い。そうするのが政治家の役割だ』と」(前出・小田氏)
前出の友野広徳に、角栄は「トンネルで便利になっても、塩谷を出て行かんでくれ」と訴えていたという。「ふるさとは家族と一緒で、どんなにカネを積まれても離れられるもんじゃないよ」と言う友野は、その後も長年塩谷に暮らし続けた。
塩谷トンネルの落成から3ヵ月がたった1983年10月12日、角栄は東京地裁から懲役4年の一審判決を宣告される。落日を迎えた角栄にとって、まさに塩谷トンネルは「最後の大仕事」となった。
郷里新潟の貧しい人々に自分は何ができるのか。角栄は政治家人生の最後に、自らの原点に返ろうとしたのかもしれない。
それから約20年後の2004年10月23日に起きた中越地震で、塩谷では小学生3人が建物の下敷きになって亡くなった。トンネルが完成した後も減ることのなかった約60戸の小さな集落は、この地震を境に一気に縮小を始め、今は19戸を残すだけとなった。
#田中角栄(塩谷「12億円のトンネル」・「目白御殿」陳情)
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「赤木ファイル」巡って闘う赤木雅子さんに“強力な助っ人”田中眞紀子氏が活動を支援していた#森友学園問題 #赤木ファイル #相澤冬樹https://t.co/BOeZHEl6se
何度か話すうちに、2022年6月15日、東京・目白の自宅に伺うことになった。
目白御殿といえば、田中角栄元首相の邸宅として知られる。屋敷の門には今も元首相の表札がかかっている。雅子さんは広間で元首相の仏壇にお参りしてお線香をあげた。仏壇の横には高級線香が山積みになっている。熨斗には「高倉健」の名前が。健さんは生前、角栄氏のため毎年線香を送っていたのだという。大勢の政界関係者が出入りし、日本の政治を動かしてきた屋敷だ。各所に角栄氏の在りし日の写真が掲げてあった。
そして力強い“助っ人”の田中眞紀子さん。1月8日、旧田中角栄邸が火事になり全焼したニュースは記憶に新しい。雅子さんがお参りした仏壇も健さんの線香も焼けてしまったのだろう。さぞ気落ちしているかと思いきや、郷原氏が10日に電話するとまたも“立て板に水”でこう語ったという。
「火事についてどうのこうのって、もういっぱい電話きてるんだけど、そんなことより地震の方をちゃんとしなさいって言ってやってるのよ」
眞紀子節、健在である。
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