https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


 テレビ朝日宇佐美佑果アナウンサー(29)が、同局を退社する意向であることが12日、わかった。ORICON NEWSの取材に同局は「海外留学の準備のために退職する意向ですが、時期は未定です」とコメントした。


 宇佐美アナは東京で生まれ、アメリカ・イギリス・ドイツ・チリなど15年間海外在住経験があり、TOEIC満点の英語力の持ち主。2012年に同局に入社し、ニュースやバラエティーを担当し、現在は『林修今でしょ!講座』(毎週火曜 後7:00)で進行役を務めている。


 同局では、宇佐美アナの1年先輩の青山愛アナも海外留学を理由に7月末で退社することが明らかになっていた。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177474
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177475
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170610#1497090997
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170609#1497004466
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170608#1496917929
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170528#1495968390


http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177469

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 新ホテルは敷地1万2300平方メートル、地上5階、地下1階建て。延べ床面積約2万3000平方メートル。部屋数は現在の129室から200室に。その一方、宴会場は13室から4室に大幅減。だがディナーショーを開催する大宴会場など、ファンのニーズに特化したものになる。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170518#1495103969

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170528#1495968371


何だろう、この抜ける様な感覚。。


見渡せる。。


いつも近い距離しか見ていないと、心も狭くなってるんだな。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170610#1497090984
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170610#1497090985(恋愛工学)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170606#1496745344
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170602#1496400399彩乃かなみ
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170324#1490352028
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20100109#1263025024

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170521#1495364121
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20161214#1481712018
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160712#1468319903


 私はある時、「目標を持たない経営戦略」というタイトルで講演をした。世間では大人はもちろん、子どもだって「目標を持て」と言われるが、私は未来の目標よりも、今を生きることほど重要なことはないと思っている。


 人間は、目標を立てると、どうしてもそれに縛られる。しかし、これほど変化の激しい時代では3年後はおろか、1年後だって状況が大きく変わったりする。こんな状況下で「立てた目標にこだわる」というのはあまり意味がないのではないかと思うからだ。


 結果よりも重要なのは、今やっているプロセスそのものだ。日々、一つひとつのプロセスに集中する。たとえ半年後、1年後に思わしい結果になっていなくても、一生懸命やってさえいれば、必ず次のステップが来る。もちろんすぐに来るとは限らず、5年後かもしれないが。


 クォンタムリープという言葉がある。量子力学の用語で「量子的飛躍」と訳されるが、人間もあるとき、いきなり“跳ねる”。かつて、万年大関と言われた琴櫻さんが、めげずに稽古に励んで30歳を過ぎて横綱に昇進したように。


 とは言うものの、私も目標をまったく持たなかったわけではない。節目と言える時期に、目標数値を掲げたことはある。


 ジャパネットたかたは、私の両親が営んでいた長崎県平戸市カメラ店「カメラのたかた」がもととなっている。私は大学卒業後、3年ほどサラリーマンをしたあと25歳で実家に戻り、両親や兄弟たちと一緒に働いていた。27歳の時、私は、3万人に満たない長崎県北部の松浦市というところで支店を任された。当時、新婚だった私は毎日、平戸からフェリーで松浦に通っていた。

 松浦店での最初の月商は55万円。3坪ほどの小さな店だ。私は妻と、「1年で月商300万円にしよう」と話し合った。目標達成よりも、そこを目指すということ自体が非常に重要だと思ったからだ。55万を300万にするためには何をしたらいいだろう?私は、そのことに一点集中して取り組んだ。


 まず最初に行ったことは、待っていてもダメだから、現像フィルムを集めるために建設現場を片っ端から回ることにした。公共工事の役所提出用写真の現像とプリントを請け負うためだ。それでも収入が足りなければ、近くの時計店や衣料品店を誘って離島に渡り、ガリバン刷りの手作りチラシを配って臨時の展示会を開いてカメラ販売をしたりもした。


 こうして30万円、50万円と稼いで300万円の目標に近付けることをやってきた。そんな風に、自分のできることを精一杯する日々を繰り返した。このときは、一生懸命やったおかげで、月商300万円を1年で達成することができ、妻と手を取り合って喜んだ。しかし、達成できなかったとしてもプロセスで頑張ったことが、次の私に力を与えてくれるのだ。


 その後、通販の世界に入り、ラジオショッピングを始める(この経緯は後述する)のだが、それで40億円、50億円の年商になったときも、私は「次は100億円を目指そう!」などと意気込んだりはしなかった。「社長なのに」と驚かれそうだが、数字だけを目指したことはなかった。年商1000億円に到達したときもそう。周りは凄いですねと言ってくれたが、言われてみれば1000億円を超えているんだという感じの私がいた。


 しかし、無感動で働いていたわけではない。それどころか、毎日、自分のできることを精一杯やっていたわけだが、その「今やること」が、もう面白くて楽しくて仕方がなかったのだ。年商1000億円を超えても、あの3坪、月商55万円からスタートした「カメラのたかた 松浦支店」時代と変わらない喜びがそこにあった。

 もう1つ、私が目標設定だけにこだわりたくないのは、人間は結果を恐れる生き物だからだ。結果に固執すればするほど、未達成が怖くなる。そうすると、過去の失敗がトラウマとなり、行動力が弱まってしまう。


 だが、今を生きていれば、結果への恐れを感じることなく、必要なら大胆な行動もとることができる。

 早朝の出発で写真販売が間に合わない時もあった。せっかく撮ったのに売らなければ、お客さまに対しても失礼だ。そういうときは帰るルートをあらかじめ尋ねておき、北九州の門司港からフェリーで大阪まで帰られる方には、新幹線で先回りしてフェリーの到着地で販売したこともある。


 損得勘定だけで考えれば、そこまでするかと言われそうな話だ。実際、黒字だったかどうかは分からない。しかし、撮ったものをきちんとプリントし、お売りするのは私たちの使命だし、大変な思いはしたが、とても面白い経験だった。

 私は1986年、カメラのたかたから独立をして、株式会社たかたを設立した。これがジャパネットたかたの前身だ。しかしいきなり通販を志したわけではない。カメラ屋だったから、最初はカメラを売っていた。そうするうちに、ビデオカメラが世に出てきたから、これも売った。次にシャープがワープロを出したから、ワープロ販売も手がけた。

 この後にテレビ、カタログ、ネット通販にチャネルを拡大していったが、すべて最初に目標を作ったわけではない。「今」に一生懸命、全力で取り組んでいたら、きっかけがポンと現れ、次に追いかけるべきものが明らかになるものなのだ。


 成長する企業は、どこも似たようなものなのではないだろうか。ブリヂストンだって地下足袋の会社から独立してタイヤメーカーになったし、任天堂は元々花札を作っていた。HISも、格安チケットからホテル業などに参入していった。


 どんどん世の中は変化するのだから、その変化に対応するためにも日々の仕事に軸足を置いて、今という瞬間を一生懸命頑張ることが大事だ。そうすることで企業も人もその変化に対応し、新たな変化を自ら創り出していけるようになると思う。

 確かに、簡単な道のりではなく、さんざん試行錯誤を重ねた。人の問題では10名程を制作会社に修行に出し、それだけではまだ力不足だったので、費用は掛かってもプロの派遣を依頼し、修行に出した社員と派遣社員とでスタートさせた。しかし、あのとき自社スタジオを諦めなくて本当に良かった。あそこでチャレンジしていなかったら、今のジャパネットたかたはない。やはり生放送の臨場感は格別だ。自社スタジオを持って生放送をできたからこそ、商品の感動をお客さまにお伝えできるのだ。


 振り返れば、ラジオショッピングを始めた前後の日本はバブル真っ只中。しかし、私はバブルとか、バブルが弾けたという感覚をまったく持たなかった。佐世保の小さなお店で今を一生懸命にカメラやビデオカメラを売っていたから、ということもあっただろう。


 ただ、私は景気が良かろうが悪かろうが、お客さまの求める商品を探し求め、その魅力を余すところなくお伝えすることさえできれば、必ず売れると確信している。だから景気の良し悪しがあまり気にならない。


両陛下は、12日午前、東京・上野の日本学士院会館に到着し、はじめに受賞者から研究内容の説明を受けられました。


107回目となることしの日本学士院賞の受賞者は10人で、特に優れた業績に贈られる恩賜賞には地震学が専門の東北大学名誉教授の長谷川昭さんが選ばれました。長谷川さんは東北地方などで地表のプレートが地下深くのマントルに沈み込む現象を観測し、地下水が地震活動に及ぼす影響などについて明らかにしました。授賞式では受賞者一人一人が両陛下の前に進み出て賞状などを受け取りました。


このあと受賞者は皇居に招かれ、両陛下と皇太子さま、それに秋篠宮ご夫妻と懇談しました。天皇陛下は、「このたびの受賞を心からお祝いいたします。これからも体に気をつけて元気にその道を進められますよう願っています」と述べ受賞者たちを励まされました。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177475

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170610#1497090984(「憲法学者は助平根性を出してはいかぬ」「助平ではある」決して政治的無能力者であってはならない )

#政治学

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177474
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177477
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177478

#勉強法


 私は、いわゆる司法浪人を1年やった後で、電機メーカーの100%子会社であるソフトウェア会社に就職した(というよりも、拾っていただいた)。司法試験不合格の発表後に届いた成績表では、すべての科目が「A」評価(最高評価)であり、これ以上やっても、自分はこの試験に縁がないと思ったからである。当時は、司法試験制度改革の試行錯誤がなされており、そういうことがあり得たのだと思う。


 私は、その会社が「法務担当者」を募集しているという記事(当時は、比較的珍しかった)を情報誌で見つけ、早速、面接を申し込んだ。役員面接までたどり着いてみると、人事担当役員は、大柄でとても怖そうな人だった。「君、司法試験はどうするのかね?」と想定どおりの質問をされた私は、「はい、やめます」と即答した。すると、あろうことか、人事担当役員は、「君、何を言っているのかね。仕事もやるから、試験も続けなさい」とものすごく大きな声で言った。目が点になった。そして、私は、採用された。

 最初の配属は、人事総務部だった。「法務担当じゃなかったのか?」と憤りを感じないでもなかったが、サラリーマンになった以上、仕方がなかった。配属されて最初の仕事は、元社長の葬儀の「看板(☞)」持ちだった。

 その後、私は、人事異動の担当主任になった。人事担当役員は、異動の辞令の際に、「清水君、組織は、人なんだ。人を大事にしない組織は、長続きしない。それを肝に銘じて、職務を遂行しなさい」と言った。ところが、その直後、私たちは、この言葉の重みを痛感する事態に遭遇する。親会社の業績悪化に伴い、リストラの指示が下ったのだ。人事担当役員は、私が人事異動担当主任になるのとほぼ同時期に親会社から派遣された人事部長と一緒に、親会社と何度も交渉した。いまのメガバンクの統合時期に当たっていて、私たちの会社の業績はまったく悪くなかった(というよりも、大幅黒字だった)からである。

すべての作業を終えたとき、人事担当役員と人事部長と私は、JR大森駅前の「養老乃瀧」にいた。最初に泣いたのは、人事担当役員だった。「人を切るのは麻薬だ。これは間違っている。人を大事にしない組織は、長続きしない」と言って、彼は、泣いた。次に泣いたのは、人事部長だった。「人を切る仕事は、人事の仕事じゃない。人を育てるのが人事の仕事なんだ」と言って、彼は、泣いた。結局、私にだけは、泣くチャンスを与えてもらえなかった。私は、人事マンとしての自分をリストラして、人事に別れを告げ、法務へ異動した。

 エピソードは尽きないのだが、最終的に、私は、法務と社長秘書を実質的に兼任しているときに、司法試験に合格した。その年、人事担当役員と人事部長と私は、短期間で、東京証券取引所に会社を上場させるミッションを負っていた。私は、司法試験場に体を運ぶことができないのではないか、試験場に行けたとしても、疲れで寝てしまうだけではないか、というくらいに忙しかった。当然、勉強などほとんどする時間はなく、旧商法末期に会社関係の改正が連続する中で、条文がどうなっているのかさっぱり理解できていなかった。
 論文試験の合格発表の日、「これから発表を見に行ってきます」と伝えた私に、人事部長は、「お前、今年は受かっているぞ。顔にそう書いてある」と言った。私自身には分かっていなかったが、周囲にはそう見えていたらしい。確かに、合格していた。その瞬間、嬉しさとともに、会社を辞めたくない、という強い思いが私の頭をよぎった。人生の選択をすべきときだった。
 最終合格後、私は、会社のために働きたいと思ったのだが、当時はインハウスロイヤーの前例もあまりなく、司法修習へ行くために会社を一時休職するなどの柔軟な制度構造にはなっていなかった。人事担当役員と人事部長は、口を揃えて、「君は弁護士になりたかったんじゃないのか?」と言った。一瞬、私は、自分がなぜ司法試験を受けていたのかよく分からなくなったが、悩んだ末、法曹への道を選んだ。それでも、会社の役には立てると思ったからである。
 大森海岸の寿司屋で送別会をしてもらったとき、人事担当役員は、「君は、つむじ風みたいな人だな。楽しかったよ」と言ってくれた。彼は、また泣いていた。

 人事部長は、私が弁護士になってすぐに、49歳の若さで亡くなった。スキルス胃がんだった。リストラ以降、私を指導しながら様々な激務をこなす中で、人事部長は、体にかなりの負担をかけていたと思う。笑いながら「あ、痛たた、胃が痛い」と言う人事部長に、「病院に行ってください」と何度も勧めたが、多忙を理由に、行く気配すらなかった。人事部長が病院へ行ったのは、すべてが落ち着いた、私の司法試験合格後だった。
 当時、某事務所のアソシエイトだった私には、この大切な恩人の葬儀に出席することすら叶わなかった。仕事に区切りをつけて、パートナーの了解を得て、大急ぎで斎場に到着したとき、故人を乗せた棺は、火葬場へ向かうところだった。私は、自分がとても無礼な人間だと思った。こんなことのために弁護士になったのではないと思った。

 いま、私が(司法研修所で強く誘っていただいた検察官ではなく)弁護士を選び、企業法務を選んだのは、会社で私に貴重な経験と勉強をさせてくださったすべての方々へのご恩返しをしたいと考えたからである。

 アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー、名古屋オフィス代表。
 1998年3月、東京大学法学部卒業。2001年2月〜2004年3月、株式会社日立システムアンドサービス(現 株式会社日立ソリューションズ)勤務。2005年10月、司法修習(58期)を経て弁護士登録(第一東京弁護士会)、西村あさひ法律事務所入所。2008年4月〜2011年3月、トヨタ自動車株式会社 知的財産部出向。2011年4月〜2016年3月、大野総合法律事務所勤務。2012年10月、愛知県弁護士会へ登録換え。2016年4月、当事務所入所。

日立ソリューションズ - Wikipedia

システムインテグレーター - Wikipedia

個別のサブシステムを集めて1つにまとめ上げ、それぞれの機能が正しく働くように完成させる「システムインテグレーション」を行なう企業のことである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177474
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150108#1420713487(研究者になるまで)

#勉強法

【田中角栄 不敗の世渡り力】敵味方関係なく最期は盛大に見送る 親の葬儀を経験して一人前 - ZAKZAK

 田中角栄が冠婚葬祭のうち、葬祭を重視したことは広く知られている。結婚式はみんなが喜んでいるのだから欠席もやむなし。しかし、葬儀にはどれだけ忙しい日程の中でも、万難を排して駆け付けている。誰よりも、死者とその遺族の悲しみに心を配った。


 それは自ら率いた田中派議員のみならず、他派や敵対する野党議員にも同じ姿勢であった。自民、社会両党の対決時代、元社会党委員長の河上丈太郎の葬儀では、自民党幹事長として超多忙だったが、12月の氷雨の中で2時間立ち続けて、野辺の送りをした。


 参列する社会党議員の中からは「田中というのは、すごい男だ」との声が出たものだった。田中は、のちに言っていた。


 「野党であろうと、自民党であろうと、この国がどうあるべきかを真剣に考えている。方法論のみが違うだけだ。人物も立派、河上さんを弔うのは当然と思っている」

 田中は「人間は親の葬儀を経験して初めて一人前になる。凡々とした人生を送ってきたヤツも、目が覚める例が少なくない」と、よく口にしていた。

 その葬儀の席で「こうして集まってくれた多くの人たちを、これからの自分は裏切ることはできない。しっかり生きていかなければ」と改めて覚醒する。葬儀を仕切って初めて、ひとかどの人物として歩み出すのだ。


 田中は秘書だった早坂茂三(のちに政治評論家)が父親を亡くしたとき、早坂を北海道の実家の葬儀に送り出す際、こう言った。「後のことは心配するな。親父さんを盛大な葬儀で送り出してやれ」と。

【「田中角栄」追憶の証言者】4000人規模「田中派葬」で守ってくれた「父との約束」――石破茂(地方創生担当相) | デイリー新潮

角栄の弔問、葬儀配慮考

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160313#1457865815


逮捕されたのは、「東京弁護士会」に所属する弁護士で、横浜市戸塚区の西山寛容疑者(34)です。


警視庁の調べによりますと、ことし1月、東京・千代田区霞が関にある東京地方裁判所東京高等裁判所などが入っている建物の6階にある男性用トイレで、トイレットペーパーに火をつけて燃やし、警備を強化させるなど裁判所の業務を妨害したとして、威力業務妨害と器物損壊の疑いが持たれています。


火はすぐに消し止められ、けが人などはいませんでしたが、現場に火の気が無かったことなどから、警視庁は火をつけられた疑いがあると見て捜査を進めていました。


その結果、周辺の防犯カメラの映像などから、自分が担当する裁判のために来ていた西山弁護士が関わったとして、逮捕したということです。


警視庁によりますと、調べに対し、西山弁護士は「トイレでたばこを吸ったが、火をつけていない」などと供述し、容疑を否認しているということです。


 こうして、塚本幼稚園が過去を総括する文書を公表し、曲がりなりにも責任を負うことを表明する一方で、未だに知らぬ存ぜぬを通し、ほおかむりをしたまま自分の過去に向き合おうとしない連中がいる──塚本幼稚園に群がったいわゆる「保守系文化人」たちだ。


 塚本幼稚園で講演したのは、安倍昭恵氏だけではない。曽野綾子櫻井よしこ村上和雄渡部昇一中西輝政竹田恒泰青山繁晴高橋史朗八木秀次各氏などなど、数多くの保守系文化人もあの幼稚園で講演している。


「講演は結構、金かかるんよ。中でも櫻井よしこさん、結構高かったよ。講演料80万(税別)。秘書の人とギャラの交渉したんやけど、『通常100万ですが、幼稚園だから、少し安くします』って話になって80万になった。ありがたい話やなと思ったよ」と、前理事長・籠池氏は当時の様子を振り返る。「あの頃は、日本会議の先生方を幼稚園にお呼びして、ご講演賜ることが日本のため、お国のためやと思ってたからね。なんぼ金を出しても惜しくなかった。お忙しいスケジュールを縫って大阪まで来て頂いた先生方には、今でも感謝してるよ」


 そんな籠池氏の感謝とは裏腹に、当の「先生方」は、自分が塚本幼稚園で講演したことをひた隠しにしようとしている。

 しかしそんな鷹揚な籠池氏でも納得できないのが、竹田恒泰氏の事例だという。「あの人、テレビに出てなんや我々のほうが寄付をせびったみたいなこと言うてたやろ? おまけに、講演料が安いとまで言うてたやろ? なんでそんなこと言うんかいな?」

 籠池氏は「みんなそうやねん。今となったらみんな『籠池なんか知らん』『金なんかもろてない』って言う。なんでこんなことになったんやろうなぁ」と首をかしげる


 2カ月前のインタビューで新理事長・町浪氏は私に、「愛国ってなんですかね?保守ってなんですかね? もうほんと、わからなくなりますね」と語ってくれた。かつて森友学園に「たかった」保守系文化人たちの豹変ぶりを見れば、彼女のこの悩みも理解できる。


 保守系文化人たちが真っ先に「保守」したのは、国家でも伝統でもなく、自分自身の安全なのだから。

#政界再編#二大政党制

Sanctions, China’s pressure won’t halt N. Korea’s nuclear program – State Dept. veteran RT — SophieCo

Tensions on the Korean Peninsula are running high. The North refuses to give in under pressure from the rest of the world and abandon its nuclear and ballistic missile programs. With patience running thin and the crisis between the two Koreas reaching the boiling point, can it be solved before the situation unravels out of control? We ask veteran State Department official, senior fellow at the US-Korea Institute at Johns Hopkins University – Joel Wit.


リビアで40年以上にわたって独裁体制を敷いたカダフィ大佐の次男で、事実上のナンバー2だったセイフ・イスラム氏は、6年前の民主化運動の際に反政府デモを弾圧して市民を殺害した殺人の罪で、おととし死刑判決を受けました。


セイフ・イスラム氏を拘束していた民兵組織はインターネット上に声明を出し、「セイフ・イスラム氏は9日に釈放されて自由の身となった」と発表しました。理由については「恩赦によるものだ」と説明していますが、この時期に突然、釈放した理由などは明らかにしておらず、セイフ・イスラム氏の居場所も分かっていません。


リビアでは、カダフィ政権が崩壊したあと対立する勢力が争う内戦状態が続いていて、長期にわたる混乱は過激派組織IS=イスラミックステートをはじめとしたイスラム過激派が一定の勢力を保つ要因にもなっています。
セイフ・イスラム氏の釈放をめぐっては認められないという勢力もあり、今後、混乱に拍車がかかる懸念が出ています。


市場関係者の間で米国株暴落の予兆チャートとして知られる「ヒンデンブルグ・オーメン」が2年ぶりに点灯、史上最高値圏にある米国株の先行きに一抹の不安が生じた。海外市場に対する出遅れ、割安感をてこに日経平均株価が2万円まで駆け上がった日本株市場でも一部で警戒感が浮上している。


  ヒンデンブルグ・オーメンは、1937年5月に米国で起きたドイツの飛行船「ヒンデンブルク」号の爆発事故に由来する。この事故が同年7月の米国株暴落の予兆だったとする理論で、1995年に米数学者のジム・マイエッカ氏が考案。52週高値・安値更新の銘柄数の関係、始値と高値の差の移動平均から短期騰勢を計るマクレラン・オシレーターなどから判断し、一度サインが点灯すると約41%の確率でパニック売りが発生、有効期間は40日程度とされる。


  米国株の凶兆が前回点灯したのは2015年6月。その2カ月後、ダウ工業株30種平均中国経済への不安から1000ドルを超す急落劇を演じた。14年9月のケースは国際通貨基金IMF)の世界経済見通しの引き下げなどを材料に10月にかけ下落基調を強め、13年4月の点灯時は当時のバーナンキ米連邦準備制度理事会FRB)議長が量的緩和策の縮小を示唆、5ー6月に株価が急落する「バーナンキ・ショック」につながった。


  楽天証券経済研究所の土信田雅之シニアマーケットアナリストは、「『ヒンデンブルグ・オーメン』が意識されていること自体が問題」と指摘。凶兆と米国株急落の因果関係は明確でない部分も多いが、実際に米国株が下げ始めると、「凶兆イコール米国株急落の怖さがあるため、われ先にとポジションを整理する動きが相次ぎ、下げが増幅されてしまう可能性がある」と言う。


  また、日本株について「日経平均の次のめどはPER15倍の2万1000円との見方が大勢だが、2万円以上を買い上がる動きがみられず、米国株の高値警戒感は相当強い」との認識を示した。ニューエコノミーの代表で、米国株の現在の上昇を引っ張るフェイスブックやアップル、アマゾン・ドット・コム、ネットフリックス、アルファベット傘下のグーグルなど「『FANG』銘柄の一部が下げ始めた時こそ、強気トレンドの転換点になり得る」と、土信田氏は警戒している。