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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444457

#96 田園調布 〜田園調布は どう超高級住宅街になった?〜 | タモリのブラブラ足跡マップ | ブラタモリ - NHK

多摩川浅間神社 - Wikipedia


 21日午前6時40分ごろ、東京都大田区田園調布5丁目の多摩川で、「人が川に入った」と通行人の男性から110番通報があった。警視庁と消防が男性を救出したが、約2時間後に搬送先の病院で死亡が確認された。


 田園調布署によると、亡くなったのは評論家の西部邁さん(78)。遺書が残されていたといい、署は自殺の可能性があるとみている。


21日午前6時40分ごろ、東京・大田区田園調布の多摩川で評論家の西部邁さんの長男から、「父親が川に飛び込んだ」と警察に通報が入りました。警察官が川から西部さんを引き上げましたが、意識不明の状態となっていて搬送先の病院で死亡しました。現場には遺書が残されていたということで、警視庁は西部さんが川に飛び込んで自殺したと見て調べています。


西部さんは北海道出身で、東京大学在学中に日米安全保障条約の改定をめぐる「60年安保闘争」で、学生運動の指導的な役割を担いました。東京大学の教授を辞職したあとは、保守派の論客として辛口の評論で活躍し、民放番組の「朝まで生テレビ」など多くのテレビ番組に出演し、大衆社会への批判を軸にした評論活動を展開しました。


私は彼が1974年に東大に赴任したときの最初のゼミの学生で、その後も毎月のように飲み屋で会った。当時は「社会経済学」という境界領域を開拓しようとしたのだが挫折し、1988年に中沢新一事件で東大をやめた。

彼の主張は冷戦の終了とともに一定の支持を得るようになったが、次第に右寄りのスタンスを強めた。民主主義を否定して核武装を主張し、規制改革や民営化などあらゆる改革を否定する「反米保守」の教祖になった。「自虐史観」を否定する教科書グループに入って右翼を連れて飲み歩くようになり、私は飲み屋で彼の隣にいた右翼に殴られたこともある。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180117#1516185633


ハリウッドで活躍する女優のスカーレット・ヨハンソンさんは、ロサンゼルスの集会で、男性が権力を乱用して性的嫌がらせをしていることが次々に明らかになったことについて「私の中で怒りがふつふつと沸き起こるのを感じた。被害者の女性に思いをめぐらせたのと同時に、19歳のころにノーと言えずに嫌がらせを受けたことを思い出した」と振り返りました。


ヨハンソンさんは、日本語で「もう終わりにしよう」を意味する「Time’s Up」という、被害者を支援するグループに寄付をするなど支持しており、「前に進みたい。前に進むというのは私の娘が今の残酷な社会の基準の犠牲になることなく育っていくことを意味する。今の女性をめぐる状況はタイムズ・アップ=もう終わりにしよう」と述べて、今こそ声を上げようと呼びかけました。


また、女優のナタリー・ポートマンさんは、男性の中から何がセクハラかをめぐって厳格すぎるという不平を聞くことがあると指摘したうえで、「男性は何を言っても何をしてもよく、女性はよくないのかもしれない。今のシステムは女性が望みや願い、要求を表すことを妨げている」と述べて、女性も自由に意思を表現できるように変革が必要だと訴えました。


さらに、女優のビオラデイビスさんは、貧困の中で育ち、性的嫌がらせの被害者だったことを明らかにしたうえで、今の動きを一過性で終わらせることがないよう、連帯して続けていくことを呼びかけました。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180118#1516272024

#色地獄

近代化の問題へと論点をすり替えている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444451
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160707#1467888099
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160623#1466678465
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160621#1466505816
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160327#1459075068
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160325#1458902605

#色地獄

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180116#1516099266


伊能忠敬を一言で表すなら、旺盛な好奇心とチャレンジ精神、そして合理的な経済マインドを併せ持った人物。自分の夢に果敢に挑みながら、決して無駄遣いをしたり、私財をすり減らしたりしなかった点は、今にも通じるバランス感覚の良さだと思います」

 その後、「地球の大きさを知りたい」と、50歳で江戸に出て天文学者に弟子入り。測量した地図が幕府の目に留まり、日本全図の作成を依頼されたのはよく知られるところだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444455
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444456

リベラルという病 (新潮新書) | 山口 真由 |本 | 通販 | Amazon

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444458

東大首席が教える「間違えない」思考法 人生の選択を左右する「俯瞰力」の磨き方 (PHP文庫) | 山口 真由 |本 | 通販 | Amazon

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444454

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#ポストモダン


 京大に出題ミスの可能性を指摘しているのは、東京都杉並区の予備校講師・吉田弘幸さん(54)。大阪大の昨年2月の入試についても、物理の出題ミスを8月に阪大に伝えていた。


 吉田さんは今月19日に京大にメールを送り、音波の反射に関する問題の疑問点を示した。移動する音源から出て壁に反射した音が、元の音と弱め合う条件を求めさせる問いについて、「音源と聞く人の位置関係、音波の性質など、解答を決めるための条件が不足している。受験生全員を正解にすべきだ」と話す。20日には文部科学省にも調査を求めるメールを送った。


 この問題は、大手予備校がインターネット上で公開している解答速報や、大学入試の過去問題集でも解答が割れている。


 大阪府内の物理の高校教諭は「問題の設定が複雑なのに条件が厳密ではなく、何が正解かわからない。高校生が解く入試問題として不適当だ」と話す。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180120#1516444457

#勉強法

原嘉道 - Wikipedia

#政界再編#二大政党制


 北朝鮮の事前視察団は21日午前9時ごろ、軍事境界線を越えて韓国に入り、バスでソウル駅へ向かいました。金正恩委員長肝煎り(きもいり)の女性音楽グループ「モランボン楽団」団長・玄松月(ヒョン・ソンウォル)氏をトップとする視察団は午前10時半ごろ、ソウル駅から高速鉄道に乗り込みました。韓国統一省によりますと、21日から2日間、三池淵(サムジヨン)管弦楽団が公演を予定している江陵(カンヌン)とソウルで会場となる施設を視察するということです。韓国メディアは、視察団は韓国軍の施設に宿泊するかもしれないと伝えています。今のところ、北朝鮮は一度、視察を中止した理由や日程を変更した理由を説明していません。


平昌オリンピックに合わせて韓国で公演を行う「三池淵管弦楽団」の玄松月氏率いる視察団は午前10時半前に韓国側が用意したバスでソウル駅に到着。大勢の報道陣に囲まれる中、玄氏は落ち着いた様子で高速鉄道の臨時列車に乗り込んだ。列車はすでに出発し、玄氏らは江陵に到着後、公演の候補会場を視察するとみられる。


スイスでの4者会談を経て北朝鮮はアイスホッケ−やスキーなど3つの競技で合わせて22人の選手をオリンピックに派遣することが正式に決まった。これについて北朝鮮の代表団は「すべての要求が受け入れられた」と笑顔で述べている。


大会の開幕を約3週間後に控え、北朝鮮の参加を巡る調整は慌ただしさを増しているが、北朝鮮が主導権を握る状況が続いている。


玄氏らは公演を行う予定の北東部・江陵に到着後、ホテルで昼食をとった。江陵では、行く先々で見物の市民が集まるなど歓迎ムードが見られ、市民から拍手が起きた際には玄氏も笑顔を見せ手を振っていた。


視察団は江陵に宿泊後、22日はソウルで公演会場の候補地を視察し、北朝鮮に戻る予定。

朝鮮半島危機の仲介役としてのカザフスタン - Pars Today

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180117#1516185636


中国外務省の陸慷報道官は、20日午後、談話を発表し、中国が領有権を主張し実効支配する南シナ海スカボロー礁(中国名、黄岩島)から12海里の海域に1月17日夜、アメリカ軍のイージス駆逐艦「ホッパー」が許可なく侵入したと述べました。そのうえで「アメリカ軍の艦船は中国の主権と安全保障上の利益を損なった。中国は強烈な不満を表明し、必要な措置をとる」と非難しました。
そして「いかなる国であっても航行の自由の名の下に、中国の主権と安全保障上の利益を損なうことに断固として反対する。中国はアメリカに対し、直ちに間違いを正し今回のような挑発行為を停止するよう強く促す」と強調しました。


スカボロー礁をめぐっては、実効支配する中国のほかフィリピン、台湾もそれぞれ領有権を主張していて、中国としては、アメリカをけん制するとともに領有権をめぐる、みずからの正当性を国際社会にアピールする狙いがあるものと見られます。


アメリカのペンス副大統領は、20日から23日までエジプト、ヨルダン、それにイスラエルの中東の3か国を歴訪する予定です。


ペンス副大統領は20日、エジプトに到着し、シシ大統領と会談しました。
エジプトでは去年11月、過激派組織IS=イスラミックステートの支部を名乗る武装グループによると見られるテロ事件で300人以上が死亡するなどテロが相次いでいて、ペンス副大統領は哀悼の意を示したうえで、「われわれはテロとの戦いでともにある」と述べ、ISをはじめとするテロ対策で連携を強化していくことを確認したと明らかにしました。


また、ペンス副大統領はアメリカがエルサレムイスラエルの首都と認めたことについて、イスラム諸国の間で影響力を持つエジプトに理解を求めたものと見られます。


しかし、ペンス副大統領の訪問を前にヨルダンの首都アンマンでは抗議デモが行われていて、各地で抗議行動が相次ぐ可能性もあります。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180118#1516272047
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180115#1516013215

阿部正弘 - Wikipedia

こうした中、正弘は江川英龍勝海舟大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所日本陸軍長崎海軍伝習所日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。

調所広郷 - Wikipedia

当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して広郷は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革農政改革、財政改革を行った。これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易、大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。


やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。


斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。


嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。

反面、砂糖の専売では奄美群島の百姓から砂糖を安く買い上げた上に税を厳しく取り立てており、債務整理でも借用証文を燃やしたり、債権主の商人を脅したり、途方もない分割払いを成立させたりしたため、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べても、領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。


また広郷は、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。その後、斉彬派の西郷隆盛大久保利通明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり弾劾出来なかったので、調所家への風当たりが一層強くなったものと考えられる。


しかし一方、その後に続き名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられていた。またそういった厳しい評価の中でも、苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという(この墓も現存している)。


第二次大戦後、広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現したと再評価されるようになった。

お由羅騒動 - Wikipedia

別名は高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。

事件の名前になったお由羅の方は、江戸の町娘(三田の八百屋、舟宿、大工など多数の説がある)から島津斉興の側室となった人物である。彼女が息子・久光の藩主襲着を謀り、正室出生の斉彬廃嫡を目したことが事件の原因とされる。


しかし、これはただお由羅が望んだだけのことではなく、祖父・重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷などの重臣達の方が久光を後継者にと望んでいたとされる。彼ら久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのである。


それに対し、斉彬の早期の家督相続を希望していた勢力もある。壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。琉球を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩はこの当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々あった。このため、西洋の事情に疎い斉興より海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。

久光は文化14年(1817年)生まれで、文政元年(1818年)に父・斉興のごり押しで種子島家の養子となった[1]が、文政8年(1825年)に斉興の心変わりにより種子島家との養子縁組を解消し、島津一門家筆頭の重富島津家へ養子に入ることとなった。名族ではあるが家老どまりの種子島家に対し、重富家の養子ともなれば次期藩主の地位を狙える立場となる。一方で斉興は嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が既に将軍家へのお目見えも終了し、将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていた事もあり廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。


その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となったが、この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。当時、藩政は下級藩士出身でありながら斉興に重用され、家老にまで上り詰めた調所が強引な改革を進め破滅的だった財政を改善していたが、調所は久光を支持していた。これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所に対する不満が高まっていた。


斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出た。琉球での密貿易は慶長14年(1609年)に藩祖・島津忠恒(家久)の琉球出兵で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年1月13日)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。


これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかったため「斉彬襲封」の実現には失敗した。一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。

斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実家の騒動を見過ごせなかった長溥は斉興が脱藩士を引き渡すよう強要するもこれを拒絶、実弟八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部に事態の収拾を訴えた。以前より斉彬を買っていた正弘は将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである(「隠居して茶などたしなむがよい」という意向によるものとみなされ、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされた)。将軍命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、遂に斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居し、家督を斉彬に譲った。


ちなみに騒動の首謀者とされるお由羅の方にはその後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去した。


なお、小説家の海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「『斉彬の蘭癖が藩を潰す』という懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたのが久光と西郷の確執の原因であるという。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180119#1516358289

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180118#1516272035


古くから淀川(上流は瀬田川)が近江国から摂津国の大阪湾へと注ぎ、滋賀を通る主要街道は全て京都へと続く。この水運と陸路、西廻り航路が開発される江戸時代の前期までは非常に重要だったのだ。

滋賀は古くから歴史の中心地であった。667年には天智天皇によって近江大津宮が置かれ、古代最大の内乱である壬申の乱瀬田の唐橋を舞台に決着を見た。


政治だけではない。最澄天台宗の総本山・延暦寺比叡山におき、紫式部石山寺源氏物語の着想を練った。宗教・文化に果たした役割も小さくない。


前述の水運、そして京都から越前や美濃へ抜ける街道も通り、交通の要衝として栄えた。その重要性は信長も立証している。足利義昭を奉じて上洛した信長は、義昭から副将軍の職を勧められたが、辞して代わりに大津・草津と堺に代官を置く権限を求めている。大津・草津は湖上交通の要衝だ。堺と並ぶ重要拠点であったことが伺える。そして、信長はその後近江の安土に居城を築いた。

一方で、主要街道沿いに生まれた「三方よし」の近江商人が、江戸時代に日本全国に散らばって活躍した。

今自分が暮らしている東京でも、近江商人の足跡はしっかりと見て取れる。日本橋に本店を構える高島屋である。江戸後期、京都で「高島屋」という米穀商を営んでいた飯田儀兵衛は、近江国高島郡(現在の高島市)出身の近江商人だった。そこに婿養子に入った飯田新七が「高島屋」の屋号を継いで、古着と木綿を扱う店を始めたのが百貨店「高島屋」の始まりなのだ。要するに、近江商人ののれん分けである。今でも毎年春に「大近江展」なる滋賀の物産展が行われていることからも結びつきの強さが伺える。

京都は、京都を出発点とする各街道を持ち、四方八方から人が来るのに対し、大阪は船運でつながる水路の京都滋賀と、海路の西国各地との行き来が容易なのだ。

正月三ヶ日には250万人以上が訪れる関西屈指の初詣スポット、住吉大社にその答えがある。境内にある「誕生石」という石の集まりだ。源頼朝の寵愛を受けた丹後局がここで出産したという言い伝えによるスポットである。その、丹後局が産んだ子供こそ、薩摩を長きにわたって治めた島津家の始祖・島津忠久なのだ。現在も、島津家では住吉大社で薩摩琵琶の奉納を行っている。大阪は島津発祥の地として、今に至るまで大事にされている。

京都で東大・京大・阪大に多くの合格者を輩出しているのが、洛南・洛星高校といった私立高校だ。いずれも宗教が背景にある。洛南の前身は真言宗教育機関洛星満州国にあった、カトリックの修道会が運営していた中学校に端を発する。


一方で、滋賀は公立高校が強い地域である。代表的な高校の歴史を見てみよう。膳所膳所藩藩校「遵義堂」の跡地に建てられている。また、彦根東は18世紀末にできた彦根藩藩校の流れをくんでいる。立地としても、国宝である彦根城の、お堀の内側に位置している。つまり、いずれも江戸時代以来の「藩」の流れをくんでいる。

客観的に都道府県ランキングを再び見ると、注目すべきはやはり奈良であろう。東大ではお膝元東京に続き2位、京大・阪大ではお膝元を抜いて1位である。その要因は東大寺学園西大和学園の二強の私立だ。


東大で見ると、東大寺学園が26人、西大和学園が35人という実績を誇る。東大寺学園は大正時代に建てられた、元々僧侶の子弟を教育するための学校である。このあたり、酒屋の杜氏(とうじ)の子弟の教育を目的に設立された灘と似ている。しかし、東大寺と言えば古くは南都六宗、さらに真言・天台を合わせた「八宗兼学」の場であり、学問をする場としての歴史は他を圧倒している。対照的に、西大和学園は、戦後に地元の有力政治家が建てた新しい学校である。途中で「日本一の進学校」を目指して改革を行い、一気に実績を伸ばした。


藩校由来の県立高校を有する滋賀とは好対照をなしている。前項で述べた藩校のような地域との結びつきが、強くないのだろう。実際、東大寺学園出身者によると「大阪府民と奈良県民が同じくらい」いたという。西大和学園出身者も「5割大阪、2割兵庫、奈良は2割弱という印象」と語る。奈良県外でもしっかりとブランドを築いているのだ。

神奈川の実績を引っ張るのが栄光学園聖光学院の二校である。一方の埼玉のトップは県立浦和である。私立が強いために差が生まれているのは歴然だ。ではなぜこうした私立高校が埼玉ではなく、神奈川にあるのか。


それは明治時代、外国人が来たのが横浜だったからだと考えられる。栄光学園聖光学院はいずれもキリスト教系の学校であり、外国人による寄与が大きい。実際、栄光学園の母体であるイエズス会の学校は、東京(上智大学)と、開港地である兵庫(六甲学院)、そして神奈川にあるのだ。一方、聖光学院はまさに居留地があった山手地区に立っている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180118#1516272037
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180110#1515581090

島津忠久 - Wikipedia

島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。ただし、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はいない。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170109#1483958249


この金印は、福岡市の志賀島で江戸時代に見つかったとされ、「漢委奴国王」という5つの文字が記されています。今からおよそ2000年前の弥生時代に、中国の後漢の皇帝から九州北部にあった「奴国」の王に与えられたとする見解が定着し、国宝に指定されていますが、後世の偽物ではないかとする説が一部の研究者から出ています。


シンポジウムは、金印を所蔵する福岡市博物館が、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者を招いて初めて開き、まず3人の研究者が基調講演で自説を展開しました。


このあと討論が行われ、この中でNPO・工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、文字を彫った痕などが江戸時代に一般的だった印の特徴を備えていると指摘し、「のちに製作された偽物の可能性が非常に高い」と主張しました。


一方、明治大学文学部の石川日出志教授は、中国各地で見つかっている古代の印の形や金の純度を比較した結果、「後漢時代の本物に間違いない」と訴え、偽物説に反論しました。
シンポジウムでは、文字やつまみの形などをめぐって激しい議論が交わされましたが、双方とも最後までそれぞれの主張を譲りませんでした。


福岡市博物館は、金印は本物だとする立場を変えていませんが、今回のシンポジウムについて、有馬学館長は「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえ、さまざまな見方ができ、学問的な根拠がぶつかっている。こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、文化遺産についての理解が一層深まると思います」と話していました。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180115#1516013199