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ムハンマドの風刺画(1)−−フランスのメディアはなぜ火中の栗を拾うのか

日本のネットをざっと見たところでは、この事件を「言論の自由」と「宗教の尊重」の二つの原理の衝突、さらには前者の原理を優先させる欧州対後者の原理を優先させるイスラム世界の二つの世界の衝突ととらえ、前者の原理に絶対的に固執する欧州の新聞の態度にある種の疑問を付すというのがだいたい穏当な意見のようだ。対立のエスカレートを前にしたときにに「甲にも乙にもそれぞれ言い分はあるが、お互いを尊重して過激な対立は慎むように」というのは、ほぼ自動的に出てくる「良識的」な意見であり、これは、フランスも含め、現在欧州各国の政治家が事態の沈静の呼びかけ際してとっている立場でもある。が当座の政治的効果を狙った発言は別として、こうした形式的な良識は、それが抽象的なものにとどまっている限りでは、問題の理解をあまり前進させるものとはいえない。


個人的な立場をいえば、自らの物の考え方の中でフランスという国のある知的伝統に少なからぬものを負っている人間として、そして今回のフランスのジャーナリストたちの行動を論理的かつ倫理的レベルで理解できる者として、「イスラム原理主義はけしからんが、フランスのマスコミもやりすぎで他者への理解がない」というようなコメントでお茶を濁して済ます気にはなれない。欧州全般については私の知識の範囲を越えるが、少なくとも今回のフランスのジャーナリズムの中での対応に関し、フランスの政治伝統と現在のフランスのメディア、言論界の状況の文脈の中で、人々がぎりぎりの選択によって行動しているということについて、恐らく多くの日本人に十分に理解されていない部分があると考えるので、以下に解説を試みる。

「フランスでは涜神(宗教的冒涜)は犯罪ではない」どころか「涜神は権利である」という言辞は「ヴォルテールの国で」という形容とともに、いかなるコンプレックスもなく発せられる。ある言辞が宗教的冒涜という名目で法的に制裁されるという事態はフランス人にとっては本質的な人権の侵害であり、フランスの多くの知識人がこの事態の到来を中世の暗黒時代への後戻り、フランスの近代の否定とみなす。涜神が罪であれば、何のためにヴォルテールディドロが闘い、フランス革命があり、ミシュレがいて、19世紀末、20世紀になってからも続く共和国派の反聖職者闘争があったのかということになる。ここには、言論の自由の普遍的価値を世界中に押しつけるというような発想より前に、苦難の上自らのものにし得た価値、そして現代においてもその保証がまだ脆弱な価値を、自分の足元で守りたいうという防衛反応が先立つ。

こうした中で宗教風刺の最大の標的になるのはキリスト教、特にカトリックだというのは、今でも変りがないと言って差し支えないだろう。カトリック教会を相手にした反聖職者闘争の伝統と、現実に今でもカトリックがフランスで最も支配的な宗教であるということのほかに、これが人種差別の疑いを持たれずに批判できる唯一の宗教であるからでもある。