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貝原益軒 - Wikipedia

損軒(晩年に益軒)

幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。

『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した。

西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」

西島
えっ。益軒先生ではなく、ずっと損軒先生だった……。


井上
ええ。数えの85歳で亡くなりますが、78歳のときにそれまでの号の損軒を益軒と変えています。だから生涯のほとんどは損軒先生ですね。
母親は6歳、継母とも13歳のときに死別して、母親の愛情には恵まれないんですが、ねえやがよく世話をしてくれたようで、晩年まで「地行ババ」といって大事にしています。


西島
損から益へ、味のある人ですね。初め「損軒」だったのが面白い……。


井上
益軒なりの損益の考え方ですね。若いとき、殿様に諫言して、役目を解(と)かれています。中国の兵書に、「柔よく剛を制す」とありますが、同じように、自分が損をして相手を助けていると、いつかそれが益になって返ってくると……。完全にリタイアした78歳で益軒と改めています。

西島
どうして殿様の不興をかったので……。


井上
益軒の初期の読書日録をみると陽明学の本が多い。この学風から、自分で正しいと思ったことは遠慮せずにやるという態度だったようで、益軒の諫言が気の強い殿様だった忠之の怒りにふれたのでは、と言う人もあります。
この数年間のブランクの間に、長崎へ2度出向いて、多くの舶載新書を読み、また生活のために医学を修業しています。
26歳のとき、江戸詰(づめ)の父親が齢をとったので、身辺の世話をするという名目で江戸にのぼります。父、寛斎があちこちひき回したので、益軒が次第に藩内で知られてくるんですね。
忠之が隠居し、光之が3代藩主になって、益軒はあらためて藩に出仕します。27歳のときです。光之は忠之に比べると小心でしたが、学問に関心の強い殿様でした。藩主交代で、やっと益軒の活躍する舞台がまわってきたのですね。

井上
再就職してからはいい待遇だったようです。28歳のときには京都遊学の命を受け、下男を連れていっています。このとき、山崎闇斎(やまぎきあんさい)や木下順庵(きのしたじゅんあん)といった当時の官学だった朱子学派の大学者をたずねて、講義を聞き、また自分も講義をしています。
その間、有名な農学者宮崎安貞(みやぎきやすさだ)[元和9年(1623)〜元禄10年(1697)]が農業を視察に上洛したとき、益軒は数日にわたって京都の周辺を案内しています。

井上
さて益軒ですが、39歳のときに17歳の東軒夫人と結婚しています。東軒は秋月藩士・江崎広道の娘で、初というかわいい名前でした。兄さんが医者で、江戸からの帰国のとき益軒と一緒だったようで、そのときに話がまとまったのでしょう。
年の差が22歳もあるので、益軒には結婚歴があるのではという人もいますが、調べてみてもそのようなことはない。やはり、初婚だったようです。
東軒夫人はたいへんな達筆でした。益軒は上京のときに東軒夫人の楷書の書を持っていき、どこの誰それにどの字を与えた、というメモも残しています。それに比べて益軒は字が上手とはいえなかったようで、益軒の軸ものは十中八九贋物といっていいですね。


小山
益軒さんのメモとなると、奥が深い(笑)。


井上
益軒は実に記録をよく残しています。

広瀬淡窓(ひろせたんそう)の跡をつぐ広瀬旭荘(ひろせきょくそう)の随筆を見ると、「益軒はどうして奥さんを連れて旅行したのだろう」と筑前の塾生に聞くと、「東軒さんがきっと嫉妬深かったからだろう」と言ったと書いてあります(笑)。


小山
当時、奥さんと一緒に1年も旅行する人はいなかったでしょうね。


井上
はい、益軒はたいへんな旅好きで、学問のためもありますが、江戸に12回、京都に24回ものぼっている人ですからね。「行装記」と題する旅行携帯品のメモ帳が3冊のこっていますよ。益軒は新しい紀行文学を開いた人なのですね。
それまでの旅行記は、どこそこの社寺に参ると、どういう霊験があるとか、こういう言い伝えがある、とかいうものだったんですが、益軒の紀行文学は、途中の自然風土、あるいは産業技術を生き生きと書いていてユニークですね。
考古学の遺跡についても具体的で、横穴式古墳は中国の古典に従って、穴を掘って住んでいた太古の人の住み家だろうとして、豪族の墓とまでは見てないんですが、描写は客観的ですね。
それに、旅行の携帯品を煙草いくつ、眼鏡2個というように、手まめにメモしています。
研究家によれば、元禄以後天下泰平になって、庶民の間に旅行ブームが起こり、それに益軒の紀行文がマッチしてもてはやされたのだそうです。


西島
奥さんが弱かったので、益軒が『養生訓』を書いたとかいう話を聞きましたが……。


井上
それはあるでしょうね。東軒夫人が62歳で亡くなると、益軒もがっくりきて寝こんでしまい、あとを追うように1年を経ずして86歳で亡くなっています。

井上
いつか、女子短大の生徒さんから電話があって、『女大学』を卒論にしたい。益軒がどうしてあんなものを書いたのか、担当教官にたずねたら、「奥さんの尻に敷かれていたから、その仇討ちに書いたんだろう」と言われたがいかがでしょうかと(笑)。
それで、「益軒は39歳、東軒は17歳で結婚してますから、2人の間がらは益軒が先生で、奥さんが生徒と考えた方がいいようですが……」と答えておきました。
『女大学』は、後の人が嫁の心得を書いているんですが、そのもとになっているのは益軒が81歳のときに著した教育論、『和俗童子訓』の第5巻「女子に教ふる法」です。
「女子に教ふる法」は娘を持つ親のために、娘を嫁がせてのちの婚家での生活規範を箇条書きにしたもので、こういう理由だからこうせよ、と書いています。ところが『女大学』になると、理由は書かずにこうせよ、ああせよと箇条書きになっています。ですから、『女大学』は当時のジャーナリズムが益軒の名声を利用してつくりあげたものといえましょう。

井上
現在、学会で博物学の文献として非常に重んじられているのは、16巻からなる『大和本草(やまとほんぞう)』です。これがもっとも益軒らしい著作と言えますね。
本草というのは応用博物学といいますか、1種の薬用を兼ねた園芸趣味と漢方薬の両方を兼ね備えた学問です。


西島
本草学」とは、だいたい薬を見つけるための学問でしょう。


井上
薬用博物学ですね。植物ばかりではなく、動物、それから鉱物にまでわたっています。
国書刊行会が益軒全集を型を小さくして分冊販売をした際、この『大和本草』が1番売れたそうです。
この中で彼は猫についても書いています。動物学的説明のあとに、猫は同じ動物類のねずみを食べるので不仁の動物だから飼ってはいけないと。ところが、自分は飼っていて、「この猫は顔つきがいいからおまえにやろう」と弟子の竹田春庵(たけだしゅんあん)にやっています(笑)。


西島
大先生の言ってることと実際とは違ってて(笑)。


井上
それから、儒者としての著作としては『大疑録』。これは、朱子学に対する疑いを述べたもので、亡くなる85歳のときにまとめています。
彼は初め、朱子学陽明学の両方を勉強するつもりでしたが、京都遊学のときに、朱子学一途に変わるんですね。山崎闇斎や木下順庵との往来が影響したのかもしれません。
彼は再出仕したので、幕府が奨励する朱子学に進んだのだと考えられないでもないのですが、陽明学は直情径行型のところがあって、それに比べると朱子学はものをひとつひとつ調べて、その結果から法則を引き出す、そういう朱子学のものの考え方が益軒には合っていたんでしょうね。
しかし、次第に疑念をもってくる。弟子の竹田春庵も朱子学に疑いを持っていました。益軒は「確かにその通りだが、それを言うと異学と思われるから口にするな」と言っています。
一応『大疑録』をまとめますが、すでに仕官をしていたせいか遠慮してるようですね。民間の材木問屋の伜の伊藤仁斎は、朱子学を徹底的に批判して古学派という新しい学派をたてますし、荻生徂徠(おぎゅうそらい)も徹底的に批判しています。益軒はそこまで言えなかったのか、考えが及ばなかったのか、朱子学の観念的な面だけを批難しています。
この『大疑録』は益軒の死後、徂徠学派の1人が朱子学を批難するために、出版しています。


小山
私が益軒先生の著書として知っているのは、先ほどお話のあった『女大学』と『養生訓』ですが……。


井上
『養生訓』は自らの健康状態を資料にしたようですが、天と地の恵みによって人間が生まれてくる。自分は、父と母のいろんな作用によって生まれてくる。すなわち、天地父母の恩で生まれてくるのだから、身勝手なことをしてはいけない、と述べてあります。

小山
黒田藩がもう少しこの大学者を大事にすれば、益軒も塾をつくれたかもしれませんね。


井上
17世紀後半では、好学の士が福岡周辺にそれほど多くなかったんでしょうね。益軒のメモ帳によると、従学者の数が福岡藩内に40人あまり、他の国出身者に15人ほどいます。しかし、自分の家に塾をつくって教えるまでには至っていないですね。
益軒没後7、80年たって亀井南冥(かめいなんめい)の頃になると、好学の気風が一般に滲透して塾がうまれるのです。

小山
益軒の後世への影響は……。


井上
ひとつは実証的博物学をやって、その結果を『大和(やまと)本草』でまとめあげたということですね。そういう博物学的研究を介して、当時の主流である朱子学のもつ観念的なものへの疑いを深め、それを、『大疑録』として後世に残さざるを得なかった。
幕末に来日した有名なシーボルトは、益軒のことを「日本のアリストテレス」と評しています。アリストテレス博物学を学び、実証的な哲学を唱えた人ですね。益軒は浪人時代に実証的気風を育てた人で次第に朱子学のもつ観念性に疑いを持ったわけですね。


小山
益軒はどちらかというと思想家というより実学家だったんですね。


井上
本質的には実学者です。しかしそれから得たものを、たとえば、晩年の教訓書(いわゆる『益軒十訓』)の中に人生論として生かしていますね。


小山
益軒の思想の中核をなすもので、現代にも通じるものといえば……。


井上
問題が大きくて簡単には言い尽し得ませんが、晩年の『養生訓』 の中の一言をもって代用させていただきましょうか、その中に、「心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。凡そわが身を愛し過すべからず」といっています。
身体は適当に鍛錬しなければなまるが、心はできるだけ楽しくもって、くよくよせずにやってゆこうと、現代的に解釈したいですね。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160605#1465123707