なるたけ理解の手間がはぶける様に、平ったくして、鵜呑みに出来る様にとは、誰も知らず識らずやる事で、そういう事に何んの努力が要るものではない。そういう傾向は、誰の裡(うち)にもある転がりやすい精神の坂道の様なもので、努力が必要にならなければ、精神は決して目覚めない。(2)
— 小林秀雄(1902-1983) (@hideokobayashi1) 2019年7月10日
『 南洲伝 』覚書(41)ー朱子学と陽明学(1) 都内某所の勉強会で、「西南戦争はまだ終わっていない」というテーマで、ちょっと、話をすることになった。そこで、考えたテーマが、「朱子学と陽明学」だったというわけである。 - 哲学者=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』 https://t.co/c4bKjYyQx4
— 山崎行太郎 @(近刊『南洲伝 』) (@yamazakikoutaro) 2019年7月11日
都内某所の勉強会で、「西南戦争はまだ終わっていない」というテーマで、ちょっと、話をすることになった。そこで、考えたテーマが、「朱子学と陽明学」だったというわけである。私が、今、一番、興味を持っているテーマだ。歴史問題とか歴史研究とかいうものは、しばしば居酒屋漫談的な茶飲み話で終わりやすい。しっかりしたテーマを持っていないと、雑談で終わってしまう。時間の無駄である 。「西南戦争」というテーマも、司馬遼太郎も『 翔ぶが如く』を筆頭に、例外ではない。侃侃諤諤の「ああだ、こうだ」という雑談で終わってしまう。歴史学者の話も例外ではない。
たとえば、「西南戦争」をめぐる「歴史学者」たちの話も、多くは、居酒屋漫談的な茶飲み話の類で終わっている。岩波新書にある西郷本なども、ステレオタイプの居酒屋漫談ばかり・・・。「大義なき反乱と民衆の悲劇」「不平士族の叛乱」・・・。