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アルベルト・アインシュタイン - Wikipedia

アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。また、6歳頃にはヴァイオリンを習い始め、すぐにモーツァルトの曲が好きに生涯の友となる。

幼少の頃は、言葉を理解したり話したりするのは得意であったが、アウトプットするのに時間を要した。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じ頃、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知り、同時に物理学に関心を示すようになったという。

1895年、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも失敗。しかし数学と物理の点数が最高点だったがため、アーラウのギムナジウム(ドイツ語版)に通うことを条件に、翌年度の入学資格を得られることになった。アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。

ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これが後の相対性理論を生み出す切っ掛けになったといわれている。

アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ。

1900年、7月チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(英語版)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。

スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。

1905年の26歳の時に3つの重要な論文を発表する。1905年に博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。バスの乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

おとなしく、生真面目な性格であった。

彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思っていなかったという。それは彼の「私は天才ではない。ただ人よりも長く一つのことと付き合っていただけだ」との言葉にも表れている。

特許庁の審査官を務めていた頃、「君ほどの人物が大学に残れないのは納得がいかない」と言われたことがあったが、「研究は大学でしかできないわけじゃないよ。だって、こうして君とお茶を飲みながらでも議論ができるじゃないか。ここは私にしてみれば、実に立派な研究室だよ」と言い返したことがある。

睡眠時間は、1日10時間の長時間睡眠(ロングスリーパー)だったという。

人前ではめったに笑顔を見せたことがなかったと言われている。

ノーベル賞受賞後ニューヨークである少女に数学を教えていたことがあった。少女の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と返答した。

小学生のように、スペルを間違えることがままあったという。

簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」とやりかえしたという。

自身が構築した相対性理論に関しては、「熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい、まるで1時間位に感じられる。では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」とのユニークな言葉を残している。

大の親日家である。改造社の招待で訪日したアインシュタインは、講演の合間に観光。特に気に入ったものは、「新橋橋善」の天ぷら弁当。そこに添えられていた「新橋玉木屋」の昆布の佃煮であった。

アインシュタイン無神論者である。自然法則こそが神であり人格のある神はいないとする考えを持っていた。


アインシュタイン神秘主義は、哲学者のピタゴラススピノザの折衷であると分析されてきており、1954年の著書『概念と見解』では彼の見解が述べられている。それは次のようなものである。


擬人的な神を据え置くというレベルの宗教を超えた場合には第三の宗教体験が存在し、それをアインシュタインは「宇宙的宗教感覚」と名付けた。この感覚の中では擬人的な神の概念は全くないし、体験したことのない者にこの感覚を説明するのは難しいということである。また、「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例え、理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を持っているとし、科学、宗教、芸術など様々な活動を動機付けているのは、崇高さの神秘に対する驚きだとしていた。

アインシュタインは、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的であると語っている。

アインシュタインは2人の息子にあてた手紙において「私が会った全ての人々の中で、日本人が一番好きだ。謙虚で物分かりや察しがよく、技術に対する勘があるから」と訪日した際の感想を述べている。

1993年、理論物理学者のスティーヴン・ホーキングが仙台を訪れた際、同地を訪れた理由を訊いたところ、『アインシュタイン博士の本を読んでいたら、「やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあったからだ』と答えたという。

橋善 - Wikipedia

新橋玉木屋 新橋本店 - 新橋/その他[食べログ]

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