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2020年8月31日

#大槻教授のサイエンス#須磨寺

「バカ、そんなこと先生だってわかるものか、神様にでも聞け!」

これは困ったぞ……神様となってはお手上げだ。何故なら神様、仏様は口をきかないではないか!

口もきかないものにどうやって教えてもらうか?

角田中学のすぐ側に八幡神社があったので、数日後、親友とこの神社に行って、

「神様、なぜ地球は何十億年も動いているのですか?」

と訊いてみた。

……なんの答えもなし。

中学2年になって理科の先生は和田先生になった。答えはなし。ただにやにや笑っているだけだった。中学の先生はだめだ。

高校の物理の先生になるまで待とう。しかしそれも嫌な予感がしていた。

そのころ私は、数学と物理はすでに高校の教科書まで勉強が進んでおり、高校の教科書にはまったく何も私への回答はないのを知っていたからだ。案の状、高校の物理の時間になっても、東北大学天文学科を卒業したての若い先生は何も答えなかった。

「そんなこと知らない」

とつっぱねられた。

しかし、私の疑問に思っていることは、実はニュートンの「慣性(かんせい)の法則(物体に外部から力がはたらかないとき、静止している物体は静止し続け、運動している物体はそのまま等速度運動を続ける)」(=第一法則)というものであることを改めて知った。

この法則が、何故成り立つかがわからないのであった。

大学でも失望した。そのころの大学は、ノーベル賞第2号となった朝永振一郎先生の君臨する東京教育大物理学科だった。私は上京した次の日の昼ごろ、さっそく朝永教授のドアをノックした。

朝永教授はこう言った。

「そうか、『慣性の法則』が何故成り立つのか分からないのか。私も良くはわからないなあ。物理学は自然はどうなっているか、つまりhow(どのようになっているか)に答えればいいのだ。why(なぜ)には答えない。それに答えるのが、まあ、科学哲学かなあ。自分で考え、自分で納得するものだ」

それならば科学者は無責任だ。自分で考えた科学哲学とやらをちゃんと教えるべきだ。

仕方がない。これから自分で考えて行こう。しかしこれが難問だった。自分でいくら考えても答えは見つからない。

そんなある時、大学の自治会で左翼学生運動にかぶれ、マルクス、ヱングルスの「唯物弁証法」なるものを勉強していたら、17世紀のドイツの哲学者・ライプニッツが発表した「充足理由律(じゅうそくりゆうりつ)」(どんな出来事にも、そうであるためには十分な理由がなくてはならない、つまり何事も理由なくは起こらない)が、私の問いに答えていることに気がついた。

私は歓喜した。

しかしそれ以上のことが起こった。

私は大学教授を退職するころになって、『般若心経』を何気なく読む機会があった。すると、なんとなんと釈迦はすでに紀元前5世紀ごろ、ライプニッツと同じ科学哲学を唱えていたのだった!

私は歓喜するどころか気を失った。

私が子供の頃から思っていた数々の疑問の答えが、釈迦が語ったことが書かれているとされる経典『般若心経』にすべて書かれていたのだ。

目に見えるもの、形づくられたものは、実体として存在せずに時々刻々と変化しているということ。何事も理由なくは起こらないということ。

そして、なぜ、地球は回り続けるのかということ(慣性の法則)も、すべて『般若心経』には書かれていた。約2500年前に亡くなった釈迦はすでにそのことを知っていた。

釈迦は、偉大な哲学者で科学者だったのだ。

私は大学で、この簡単な「充足理由律」を学んでも、なんだこんなもの、科学ではいつも当たり前ではないかと思っただけで、これが仏教哲学ではすでにライプニッツより2000年以上も前に釈迦、あるいは、釈迦の弟子たちによって説かれた真理とは気がつかなかった。

「一定の速度で」というものは、高校の物理で学んだ「慣性の法則ニュートンの第一法則)」である。「ものはすべて運動している」ということは、上記で述べた哲学によって分かる。

自然は常に「空」なるもので、在るか無いか分からぬ矛盾に充ちた存在で、絶えず運動や変化をする捉えどころのない存在である。

そして「一定の速度で」というのは、速度を変えるような因縁がないからなのだ。私の机の上の鉛筆も、シベリア北方を飛ぶ高速ジェット機の鉛筆も立ったままでいるのは、それを倒すような十分な理由、「充足理由」=「因縁」がないからなのだ。

約2500年前に亡くなった釈迦は、すでにそのことまでも知っていたのだ!

この宇宙はすべてが運動と変化をしている、つまり「空」なものであるとすれば、何か他に「固定されて、動かないもの」「変化しないもの」、つまり「空でないもの」は宇宙にないのであろうか。

それが厳然としてあるのだ。真理という「原理」「原則」「法則」というルールである。

19世紀までは、物質あるいは質量(重さ)が、この変化しないもの(不変なもの)ではないのか、と言われた。

そしてそれが「物質不滅の法則」「質量保存の法則」(化学反応の前と後で物質の総質量は変化しないという法則)などと呼ばれた。

しかし現代の科学、物理学ではこれは否定されている。それならば、「絶対不変なもの」は他にないのか。

この問いを、「保存法則」(物理的変化あるいは化学的変化の前後で物理量の値が変わらないという法則)はないのか、と問い直すこともできる。ここで「保存」というのは「変わらないもの」という意味である。

それがあるのだ。

それは、「運動の勢い」と呼ばれるものである。もちろん、この「運動の勢い」は速度と関係する。速度が速いほど勢いは大きくなる。また質量は大きい(重い)ほど大きくなる。

飛んでくる石に当たったとき、石の速度が大きいほど、石が重いほどダメージは大きくなるのだ。この量は「エネルギー」と「運動量」と呼ばれる。

ただし、これはニュートン力学の段階の定義であり、ミクロな原子物理の世界になれば、表現は異なってくる。エネルギーと運動量はいついかなる時にも、いかなる場所でもいつも不変なのだ。これが般若心経でいう「不増不減」「不生不滅」の真理と同じということになる。

気がつけば、科学や物理学には他にも絶対不変なものがたくさんある。それらは基本法則」(自然現象を支配する基本的な法則)と呼ばれている。

たとえば「ニュートンの法則」(すべての物体は、外から力が加わらない限り、同じ速さで直線運動をし続ける)がそれである。

ニュートンの法則」によって、トイレで出すおしっこの流れる形(放物線軌道に近いもの)は決まる。この形は別のトイレでも変わらない。新幹線のトイレでもジェット機のトイレでも同じではないか!(試しにやってごらん)

もちろん、トイレでのおしっこの流れる形は昔も変わらなかった。このようにして「ニュートンの法則」は「基本法則」であり、これはいつも、どこでも不変な法則なのだ。これこそ、「不増不減」「不生不滅」と同じということができる。

アインシュタインはこの不変法則を「相対性原理」と述べた。アインシュタインの「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」の出発点は、この「相対性原理」という哲学、つまり「不増不減」「不生不滅」の教えにあるのだ。

「相対性原理」は物理学の基本法則がいついかなる時にも、またいかなる場所でも不変なものという原理であるから、逆に物理学の法則のうちで、ごくごく基本的で絶対不変な基本法則がどれかを判定するのに役立つ。

つまり、物理学で最終的な真理を見つけることが出来る。『般若心経』の「不増不減」「不生不滅」という哲学が、アインシュタインの「相対性原理」までも包括しているとは驚きではないか!

私が子供の頃から疑問に思っていた、「地球はなぜまわり続けるのか?」への答えであるニュートンの「慣性の法則」。目に見えるもの、形づくられたものは、実体として存在せずに時々刻々と変化しているという「諸行無常」。

また、マルクス・エンゲルスの「唯物弁証法」(弁証法的に運動する物質が精神の根源であるという考え方)。何事も理由なしには起こらないというライプニッツの「充足理由律」。 アインシュタインの不変法則である「相対性原理」。

それらすべてを、紀元前5世紀ごろに生まれた釈迦はすでに知っていて、『般若心経』にもそのことが書かれているのではないか。釈迦は偉大な哲学者で科学者であり、『般若心経』には科学の本質が入っているのだ。

#科哲

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僕にいわせると「発生の機は螺線的運動にあり」というのサ。なんでも物の発生するというのは君も知ッている通り「力」の所為サ。その力で逐いやらるるものは則ち先にいうた原則で必らず螺旋的に動くのサ。ソコデこの螺線的運動は力のある限りは続くのだ。何故螺線的運動をするかというに、世界は元来、なんでも力の順逆で成立ッているのだから、東へ向いて進む力と、西に向て進む力、又は上向と下向、というようにいつでも二力の衝突があるが、その二力の衝突調和という事は是非直線的では出来ないものに極ッてるのサ。

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形而上学は手を尽くして第一原理を見つけ出そうと試みた。考える人は自分の知識がちゃんと理にかなっているということを知りたがり、そのためには一般に認知される第一原理が必要だったのである。

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いつの時代でもそうだが、人間というものは「命」の存在である。命の第一の意味は誰も知る命のこと。絶対のものである。なんで命があるんだとか、必要なんだとか、大切なんだということは意義をなさん。命というものは天地の創造である。必然・絶対のもので、何故という疑惑や打算を入れる余地のない第一原則である。

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ミリンダ王の問い - Wikipedia

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 このように『華厳経』は、まず第一に、私たちの常識に挑戦し、自己と自己を取り巻く世界の全体を心の表れとみなし、この見方に立って仏と私たち衆生とも一体であると論じます。つまりは、『華厳経』に従えば、他のすべての人びと、あらゆる事物・事象も仏たちさえも、私たち一人ひとりが描き出す画像にほかならない、というわけです。

 このような思想は、「自分が存在する、しないにかかわらず、世界は実在する」とか、「仏は私たちを超えた絶対の存在である」といった認識の仕方に慣れた私たちには、なかなか理解できません。しかし、よく反省してみますと、そもそも私たち一人ひとりはみなものの見方・考え方が違い、生き方が違う、ということが事実としてあります。このことは、私たちの心がちょうど鏡のように外界の存在をそのまま映し出しているのではなく、むしろ外界に積極的にはたらきかけ、そのイメージを構成し、それにもとづいて生きている、ということを立証しております。私たち一人ひとりの心が、実は私が生きる世界を一つの図式として組み立て、私たち一人ひとりがその図式にのっとって生きているというわけです。一切のものを心の表れと見る『華厳経』の考え方は、そのような、徹底して自己自身とかかわるものとしての世界のあり方、主体的な世界の成り立ちを明らかにしているのです。

 物理学の立場から

 以上、お話ししたように、『華厳経』には、私たちがほとんど忘れかけていた重要なものの考え方が全体を貫く基調として流れています。そして近年、先端的な研究を進めている科学や哲学の分野の人たちの中から、こうした考え方に注目し、それを取り込み新しい方向を開こうとする研究者が出てきています。たとえば、いわゆるニュー・サイエンス運動の旗手の一人であり、現在も版を重ねている『タオ自然学』(邦訳、工作舎、一九七九年)の著者であるフリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra一九三九−)がいます。かれは、鈴木大拙(だいせつ)博士(一八七〇−一九六六)の『華厳経』理解に強く共鳴し、

 『華厳経』の中心テーマは、すべての事物・事象の統一性と相互関連性である。この考え方は、東洋の世界観の本質そのものであるのみならず、現代物理学によって明らかにされつつある世界観の基本的諸要素の一つでもある。

と主張しております。かれがここで述べている現代物理学とは、直接には、同書の後段に細説されるように、G・F・チュー博士が提唱したブーツストラップ(靴ひも)仮説を指すようです。

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宇宙人生は天の自慊(じけん)的創造である。自己を実現しつつある努力である。
この絶対自慊にして、何等他に俟つ所を求めない生々化育の努力を「誠」と謂う。
誠は天の道である。誠に由(よ)って萬物があり、誠がなければ物もない。人は、此の誠に由って生き、禽獣と異なって自覚を生じ、誠の誠なる所以を体認して之を発揮するようになる。
これを「誠之(せいし)」といい、所当然の道とも謂う。

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対立はすでにその奧に統一を予想し、変化はその根底に不変を内含してゐる。我々は統一なくして対立を考へることはできず、不変を離れて変化を解することができない。善悪が相対的区分だといふことは、同時に善悪を統一する根本原理を示現してをり、道徳が変化するといふことは直下に道徳の不変を証明してゐる。
 ただし道徳の不変といつても、それはいついかなる場合にも充当し得る行為の模型が存する意味ではもちろんなく、いついかなる場合にも道徳を成立せしめる根本原理が存在するといふ意味である。善悪の区分とてもその通り、いついかなる場合にても善悪を立て得る根本原理が存在してゐるのである。

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#勉強法

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