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枝野代表は、東北大学では小嶋和司ゼミに属していたという。(故)小嶋和司は、その優秀さで知られていたが、ウィキペディアでは、その優秀さのゆえにかえって宮沢俊義に疎まれて東大に残れなかった、などと書かれている。ミステリアスな憲法学者だ。小嶋教授の弟子、いわば枝野代表の兄弟弟子に、大石眞・京都大学法学研究科教授がいる。大石教授は、集団的自衛権違憲とは言えない、と明言する論文を持つ数少ない憲法学者の一人だ。


大石教授の下で学んだ者の中に、井上武史・九州大学准教授がいる。井上准教授は、集団的自衛権違憲とは言えない、と発言したため、執拗な嫌がらせと脅迫を受け、警察官とともに通勤せざるを得なくなった経験を持つ憲法学者だ。「2013年枝野改憲案」論文は、枝野氏が小嶋教授門下生であることを考えながら読んでみると、よりよく理解できるかもしれない。(ただし、2017年の立憲民主党代表の枝野氏の立場が何であるかは、まだ判然としないのだが。)

興味深いのは、拙著『ほんとうの憲法』で私がとった立場と同じように、宮沢俊義に見込まれて東大法学部第一憲法学講座に招聘された小林直樹によって「通説」化された、日本国憲法には「三大原理」がある(国民主権は一つの「原理」である)、という説を、小嶋が採らなかったことだ。小嶋にとって、「主権が国民に存する」と宣言することは、日本国憲法が「民定憲法」である性格を示している、それだけのことだった。小嶋は、代わりに、三つの「日本国憲法の諸主義」として、「自由主義戦争放棄主義、国際協和主義」をあげていた。(小嶋和司『憲法概観』(新版)[1968年])。

宮沢俊義教授は、ポツダム宣言の受諾は『主権』の変更を意味し、『主権』の変更は法律上『革命』とみるべきであるとして、有名な『八月革命説』を述べられた。ポツダム宣言は『日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ』政府形態が定めらるべきことを述べるのみで、『主権』を問題としていないし、その受諾のとき、『革命』の担い手もなければ、『革命』の意識もなかったのにである。この論理において注目されるのは、『主権』概念をもち出し、それを媒介とする論断で、ここでは、その語の権威的印象が、これまた強烈な印象を随伴する『革命』論の決め手とされている。『主権』の語の意味多面性は、それを上手にふりかざせば、望みの帰結を出しうるごとくである。」(7頁)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170828#1503916640(母を助けたのが先の大戦・戦後の改革の真相。)

小嶋和司 - Wikipedia

今の学年制で言えば小嶋と芦部は同学年であるが、小嶋は芦部より2年早く東京帝国大学法学部を卒業している。芦部が宮沢俊義教授を指導教官として助手になったとき、小嶋は大学院特別研究生として以前より宮沢の指導を受けていた。そうした関係から小嶋は芦部に対して憲法研究の手ほどきを施した。


小嶋は学問に対する生真面目さから師である宮沢に対する批判をも辞さなかったことから、次第に宮沢と小嶋の関係は悪化し、結局、小嶋は宮沢の後継者となれなかったと言われる。宮沢は、親友であった尾高朝雄の弟子である小林直樹憲法第一講座を、芦部に憲法第二講座を継承させる。


小嶋と芦部には、憲法研究における微妙な棲み分けがあった。主に人権論と憲法訴訟の研究へ進んだ芦部憲法学と、主に財政・明治憲法の研究へ進んだ小嶋憲法学は、直接的には対立しなかった。小嶋と芦部の意見が真っ二つに分かれたのは、1985年の中曽根康弘総理大臣時代に藤波孝生官房長官の私的諮問懇談会のメンバーとして討議した靖国神社公式参拝問題であった(参考文献:高見勝利『芦部憲法学を読む』、「〔座談会〕芦部信喜先生の人間と学問」ジュリスト№1169)。

宮沢俊義(小嶋の師)
芦部信喜(弟弟子)
佐藤幸治(小嶋を尊敬)
堀内健志(小嶋の弟子)
大石眞(小嶋の弟子)
赤坂正浩(小嶋の弟子)
枝野幸男東北大学在学中に小嶋ゼミに所属)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171102#1509618688
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171028#1509187454