東大・京大・早慶→一流企業のエリートが「日本ヤバイ」と言う理由 : https://t.co/NQN82TIkSb #現代ビジネス
— 現代ビジネス (@gendai_biz) 2018年12月13日
2017年の秋、私たちは、南カリフォルニアを代表する名門、カリフォルニア大学アーバイン校のビジネススクールに同期生として入学した。これから始まるであろう厳しいビジネススクールの生活を目前に、同じく日本を母国とする仲間として、またライバルとして、お互いを意識し打ち解けるまでに長い時間は必要ではなかった。
そして、聞けば皆、日本ではいわゆる“エリート”と呼ばれる経歴を持つ者ばかり。一流大学(東大、京大、慶応、早稲田)を卒業後、大手企業の最前線で戦ってきており、順風満帆のキャリアの中で満を持してのMBA留学といっても決して過言ではなかった。少なからず “日本を代表している”という気概を持ってこの留学に臨んでいたことは間違いがない。
そんな「私」が、MBA生活の中で打ちのめされたと聞けばどうだろうか。いい気味だ、よくある話だ、と一蹴する方が多いかもしれない。そういった意見があるのは承知の上だ。しかし、それでも今回、私たちはその経験を語る必要があると痛感した。
日本において、優秀だ、エリートだ、と呼ばれてきたことは事実だ。そんな私たちが海外に出てきて挫折し、悩んだ。そして、とことん語り合ってみたら、こう結論がついた。
「私たちと同じような人材を、もてはやし、企業の最前線に置く日本は、本当にこの先、世界で戦えるのか」
深夜に、そんな自分の気持ちを落ち着けるためにMBA入学のためのレジュメ(履歴書)を改めて見つめる。そこにある経歴は確かに輝かしい。でも、そこに決定的に欠けていると発見したのは、 “自分の意志”だった。自分は人生の大半をかけて何を成し遂げたいのか、もっと単純に、何に興味があるのか。そういう単純明快な目指すべき場所が感じ取れない。
ここにある経歴は、今自分が所属する会社という中で、成功するという意味においては、輝かしい。勉強、会社、あるいは社会という一定のルールの中においてうまくやれる、という点においては十分すぎる勲章だった。だけど、その先がない。
人は根源的な欲求は捨てられない。承認されたいし、出世もしたい。頭がいいといわれたいし、仕事ができるといわれたい。結局のところ、心の奥底まで問い詰めれば、私はそういった自己欲求を満たすためだけに全力で努力していたにすぎないんだ。なんということだろう。
私は、留学前、同じ組織にあって同じような仲間と志を一にして切磋琢磨してきた。みんな、驚くほどに仕事に貪欲だし、そしてまた勉強するのだ。資格試験、語学勉強、読書、プライベートのビジネス集会、私費での夜間MBA等々、皆、間違いなく優秀だし、志が高かった。
ここで問いたいのは、その努力や目標はどこを向いているんだろうか、ということだ。無論、先に出たような“欲”がだめだとは言わない。でも、それが、とある会社での出世、なんだとしたら何かあまりにも画一的であり、また漠然としすぎていないだろうか。世界は広い。もっと広い視野をもって明確な“自分がこれをやりたい”を持つべきじゃないだろうか。
仕事を通して何を実現するのか。キャリア形成の主導権は会社でなく個人にあることを、ビジネススクールにいるとひしひしと感じる。キャリアにおける成功は人によって違う。あなたが今いる会社で成功することがあなたの人生のキャリアにおける成功のすべてではない。そう考えられる多様な人材と、それを受け入れる懐の深い社会になれば、日本はよりグローバル化する社会に良い意味で対応できるのではないだろうか。
私は企業という枠組みの中で上手く生きることやテストというルールで勝負することについては間違いなく得意なほうだと思う。しかし、それだけで本当によかったのだろうか。
浅いな(笑)。
— takahaki23 (@takahaki23) 2018年12月13日
本郷和人の日本史ナナメ読み】大隈重信の不遇(下)西郷どんと信長の意外な共通点 https://t.co/riYWSpvhsU @Sankei_newsさんから
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/11/11/200537
『西郷南洲遺訓講話』
P3
これに就いて、恰度思ひ出すことがある。西郷従道さんが、或る時の話に、
『隆盛がよく申して居りましたが、大隈重信には、教育のことを授けてはならぬ。又た井上馨には、決して財政のことを任せてはならぬ。とかやうに申して居りました。』
とのことぢや。
P4
南洲翁の意中を忖度して見たら、大隈は心に誠が足らぬ。誠の足らない者に、天下風教の源であり、且つ人倫の大本を教ふる教育家の任務を託すべきではないと思はれたものと察せられる。井上には、南洲翁が、或る時、
『井上さん、あんたは三菱の番頭になられてはどうでごわす』
といはれたことがあるさうぢや。井上は金を溜めることは知つて居ても、公私の別あることを知らぬ。さういふ人間に、苟くも皇室の御財政、延いては、國家財政の重任が委せられるものではない。といふのが南洲翁の意中であつたやうに思ふ。
財政家を以つて任じてゐる井上に、國家の財政を任じてはならぬといひ、大教育家と威張つてゐる大隈に教育のことは委せられぬといはれた、南洲翁の眼光は、遥かに俗眼を抜いてゐるものがあるヨ。