『南洲伝』覚書(1)ー明治天皇と西郷南洲。 西郷南洲は、征韓論論争の果てに、あっさりと身をひいて、公職を辞職して、鹿児島に帰っていった。その時、西郷南洲は、「 私は策謀をしなかった」と言ったと伝えられているが、この言葉の意味は小さくない。普通は、西郷 https://t.co/Wgy0CY2Obz
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年5月1日
普通は、西郷南洲は、征韓論論争に敗れて、敗走するように、故郷・鹿児島へ帰って行ったということになっている。私は、そうは思わない。西郷南洲は、征韓論論争に負けてもいなければ、敗走したのでもない。そもそも「 征韓論論争 」は、あるいは「 明治六年政変 」は、征韓論をめぐる論争でも政争でもなかった。大久保利通、岩倉具視、伊藤博文等が試みた権力奪回のための政争であった。私は、個人的には「 大久保利通のクーデター」だったと思う。大久保利通等、欧米使節団の一行は、行く先々で、政治的大失敗を繰り返していた。ところが、留守政府と揶揄されることになる国内残留組は 、西郷南洲を筆頭に、江藤新平、板垣退助、大隈重信等が集う留守政府は、どんどん革新的な政策を断行していった。明治新政府の主導権は、すっかり、彼らの手に移っていった。帰国後の大久保利通等は、なすすべがなかった。ここから、大久保利通や岩倉具視、伊藤博文等は 、西郷南洲や 江藤新平、板垣退助等から主導権を奪還すべく、明治天皇を巻き込んで、「 クーデター 」まがいの陰謀を画策する。それが征韓論論争だった。西郷南洲は、その陰謀を知っていたが、明治天皇までが大久保利通等の陰謀=謀略のターゲットになり 、洗脳、篭絡され、仲間に取り込まているのを知ると、もはやこれまでと、あっさりと帰国を決断する。
『南洲伝』覚書(2)ー明治天皇と西郷南洲。 征韓論論争と西南戦争において、はじめて西郷は、「 西郷隆盛」「 西郷南洲」になった、と言っていい。確かに、歴史的事実としては、西郷は、大久保利通や岩倉具視等の策謀に負けた。しかし、西郷は、「 負ける」ことによって https://t.co/jWZcmIEZ4Q
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年5月2日
西郷は、ここで、明治天皇と袂を分かち、敵対関係になる。そして、最後は、天皇に刃向かった「逆賊 」として死ぬことになる。だが、むしろ、明治天皇の方が、西郷を死なせてしまったことに、深く悩み続け、「良心の呵責 」を感じ続けたと思う。明治天皇は、西郷を他の誰よりも愛し、しかも個人的にも、相撲をとったり、ともに九州旅行をしたりと深く交流していた。明治天皇には西郷と敵対するつもりも、見捨てるつもりもなかった。ただ、岩倉具視や大久保利通、伊藤博文らの反西郷の「 謀略」と「 陰謀 」に巻き込まれただけだった。明治天皇もまた、西郷と同様に、この時、「 負けた」のであり、「 敗者」となったのである。
歴史学者や歴史作家の人間理解の未熟さと思想的限界を指摘したいと思う。
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#天皇家
西郷南洲の如きは最も毀誉褒貶紛々たる死に方をした人であるが、彼は一度新政府当局者の私欲政治を厭うの余り北海道退耕を企て、板垣退助の熱誠な諫争に由って思い止まり、また薩南に帰臥するに当って、岩倉具視が明治天皇に彼の近衛都督兼陸軍大将の両職を免ずべき旨を願った時、天皇は近衛都督は身在京を要するから免ずるのが至当であるけれども、陸軍大将は其のままで差支無いとて、如何にしても御聞き入れなかったことを聴いて、あの巨躯を投げて皇居を遥拝し、ただ言葉なく感涙に咽んだ多感多情の人である。彼が官軍に抗するに至ったのには、よくよくの苦衷あることは察するに難くなかろう。
彼を一時の感情に身を誤った大愚の如くに評する賢者、賢者らしくてより更に大愚が多い。それに智慧は虚静なる人格より発するものほど深いことを忘れてはならぬ。