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 終戦後、ソ連の指導者スターリンは、「負かされても、日本人のような民族は必ず立ち上がってくる」と、日本に対して強い恐怖心を抱いていたという。そのことを細谷教授は次のように指摘している。


「ロシア人は半世紀の間に、日露戦争、シベリア出兵、そしてノモンハン戦争と、強大な日本軍の侵攻を、3度も経験していた。その強大な軍事力による侵略を受けた記憶からも、日本の将来について、ロシア人は根強い恐怖心と不安を抱いていたのだ。それは簡単に払拭できるものではなかった。言い換えれば、規律正しく、組織的で効率的な日本国民が持つ潜在的な資質に対して、ロシア人は畏怖を感じていたともいえる。」


 そしてスターリンは、日本が二度と立ち上がれないようにするために、過酷な占領政策を行うべきだと考えていたという。だが一方でスターリンは、アメリカの原子爆弾に対して、より大きな恐怖を覚えていた。スターリンソ連国内の原爆開発担当者に次のように言った。


ヒロシマは世界全体を揺るがした。バランスが崩壊したのだ。爆弾を開発せよ。それによって、われわれは巨大な危険から解放されるであろう」

 しかし、ソ連が自前で核兵器を開発するには、大きな難問が立ちはだかっていた。ソ連国内で核兵器を作るために十分な量のウランが見つかっていなかったのである。そこでスターリンは、日本占領よりも、高品質のウラン鉱石が埋蔵されているブルガリアルーマニアを勢力圏に組み入れることを優先して考えるようになる。


 1945年10月、スターリンアメリカのハリマン駐ソ大使と会談し、アメリカが対日占領で優越的な地位を独占するのを認めるかわりに、ソ連ブルガリアおよびルーマニアとの戦後処理で優越的な地位を独占すること認めるよう、「交換取引」を持ちかける。米ソの利害が一致した結果、日本と東欧2カ国の「交換」は1945年12月のモスクワ外相理事会で外交的合意として成立する。