立教大広報課長
— これでも大学職員 (@koredemo) 2019年1月6日
「偏差値によるカテゴリーであるMARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)の中にいては、独自の特色を打ち出しても、埋もれてしまう危機感を持っています。受験生や社会から選ばれる大学を目指すことで、脱MARCH、RJKのカテゴリーを目指すこととなりました」https://t.co/TITEkQ1obn
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/30/200120(本当の学問とは)
どうぞ、ご自由に。
でも、かなり浮きますよ。
思わぬものが出てきた。大学院(文学研究科)の襟章。学生服の襟に付けるやつである。当時からすでに時代遅れの品で、一度も着用していないはずである。いまでも入学時に配布されているのだろうか。
鹿児島県立甲南高等学校の制帽
角帽の4つの角は、哲学・法学・天文学・薬学を表している。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/25/200130(山崎行太郎)
若き漱石は大変優秀 成績記した恩師の「手帳」発見 福井 #nhk_news https://t.co/w8chLgspEZ
— NHKニュース (@nhk_news) 2019年1月7日
福井県によりますと、手帳は漱石が通っていた東京の旧制第一高等中学校で教べんを執っていた越前市出身の哲学者、松本源太郎が書き記したもので、去年11月、松本のひ孫が越前市の図書館に寄託した資料の中から見つかったということです。
松本が教えていた「論理学」の成績が生徒ごとに記録されていて、漱石の本名である「夏目金之助」の欄には1学期が80点、2学期が90点と書き記されています。
また、別のページには漱石と同級生だった俳人・正岡子規の成績も記され、こちらは1学期が74点、2学期が82点となっています。
3学期は松本がイギリスへ留学したため空欄となっていました。
手帳には明治21年から22年にかけて在籍していた30人余りの生徒の成績が記され、漱石の成績は1学期と2学期を合わせるとトップだったということです。福井県によりますと、漱石自身の学業に関する資料が発見されるのは珍しく、成績を記録した手帳の発見は初めてだということです。
漱石は当時20代前半で、内容を分析した早稲田大学の中島国彦名誉教授は「点をみると大変優秀で、勉学に励んだことがうかがえる。後に各界で活躍する学友との交友を通して漱石が成長していったことが感じられる貴重な資料だ」と話しています。
手帳は今月10日から20日まで福井市の「県立こども歴史文化館」で、今月25日から来月24日まで越前市の「武生公会堂記念館」で公開される予定です。
今回の調査では、松本源太郎が明治から大正時代にかけて書いた44冊の日記も見つかりました。
この中では、熊本の旧制第五高等学校に教頭として着任した松本が、英語担当の教授となっていた教え子の漱石と再会し、日々、会話を交わすなど、親しく交流を続ける様子が具体的に書き残されています。
日記は今も分析中で、今回の発見をきっかけに熊本にいた時の漱石の実像に迫る研究が進むのではないかと関係者から期待が寄せられています。
調査にあたった福井県立こども歴史文化館の笠松雅弘館長は「これだけ貴重な資料が福井にあることが分かり、驚きました。見つかった資料が今後の漱石研究などにどう生かされるのか楽しみにしています」と話していました。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2019/01/06/200150(いままさに痛感しています。森高千里の「勉強の歌」を歌いたいくらいに。)