『南洲伝』と『モーゼ伝』■ 「 賊軍 」とか「薩賊 」とか「反乱軍 」とかいうような言葉は新政府や 、御用新聞と化した当時の東京のジャーナリズムが情報工作の一環として頻繁に使用した言葉である。しかし、これらの言葉は反転する。 - 山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』 https://t.co/Cv9Vq2R4wZ
— 山崎行太郎の毒蛇山荘日記 (@yamazakikoutaro) 2019年2月1日
西郷南洲を戦死に追い込み、勝ったはずの新政府側の総大将とでも言うべき・・・大久保利通( 内務卿 )も川路利良(大警視 )も、一、二年後には、暗殺されたり病死したりしている。西郷南洲の死が神話化され、永遠の命を吹き込まれて、一種の「宗教的存在 」(「西郷南洲のモーゼ化」? )に化していくのに対して、大久保利通の死や川路利良の死は、一顧だにされないという不思議な現象が起こる。こういう時、歴史学者は無能、無力である。彼等は、西郷南洲を歴史的人物として実証的に描くことは出来ても、西郷南洲の人格も西郷南洲の精神も、西郷南洲の哲学も描くことは出来ない。むしろ、無知蒙昧な一般庶民の集合的無意識にこそ、それが出来る。言い換えれば、そこには、芸術的、思想的、哲学的才能が必要である。何故、西郷南洲は「 西郷南洲」になったのか? 再度、引用するが、江藤淳の次の文章は、凡庸な歴史学者には書けないし、歴史学者という実証主義者には理解出来ない文章であろう。もちろん、合理主義や実証主義に毒されていない一般庶民には、良く理解出来る文章のはずである。一般庶民もまた、西郷南洲を西郷南洲以上の神話的、宗教的存在としての「西郷南洲 」として理解している。それこそが、江藤淳の言う「 西郷南洲という思想」である。
《このとき実は山県( 有朋 )は、自裁せず戦死した西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである。陽明学でもない、「 敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらすべてを越えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない『 西郷南洲』という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて『西郷南洲 』以上の強力な思想を一度ももったことがなかった。》(『南洲残影 』 )
翁は洗心洞箚記を借りて旅宿に帰り、熱心に之を読んだ。而して薩摩を出立する時に借りたまま福岡に持ち帰つた。川口老人は翁が秘蔵の本を無断で持ち去つたので大に怒り、其後福岡の有志が鹿児島に赴く毎に、翁の処置を非難した。翁は之を聞いて一書を川口老人に送り、折角拝借した以上は存分に味読したい、此書の精神を体得した上で返上すると告げ、其後程なく返送した。
大久保孝治は、「戦略としての『庶民』」と清水の思想行動を評しており、それによると、西洋市民社会の個人を観念的に理想化して庶民を見下す進歩的文化人に対して、清水は庶民の背景にある匿名の思想(「国民の大部分がその日常生活のうちにおいて信じているもの」「経験・問題・願望」)に気づいて、自らの思想の梃子の支点として庶民を使い、「庶民という概念は、清水が自身を他の進歩的文化人と差異化するための、そして清水が参加していた社会主義的社会の実現を目指す運動のための一種の戦略的概念」と評している。清水は、日本の知識人が諸外国の学説を有難がり、独自性がないのは、匿名の思想に立ち入り、表現する努力を怠っているためと述べている。
私は「つくる会」に対して“日本人に誇りを”や“自虐史観に打ち勝つ”だけが目的の組織ではないという思い、もっと大きな課題、「日本から見た世界史の中におかれた日本史」の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家としての思いがある。