https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

先日、文春オンラインのインタビュー記事で西尾幹二先生が「物語のない歴史は歴史ではない」というようなことをおっしゃっていたのですが、まさにこのあたりが問題になりやすい。

まず、戦前の歴史は天皇を中心とした物語だったわけです。ところが、それを戦後の歴史は全部否定した。どういうことかというと、「歴史は物語ではない」と物語性をなくしてしまったんです。果たしてそれは正しかったのか。

歴史の物語性について有名な「本能寺の変」を例に考えてみましょう。信長が1582年に明智光秀に討たれた。これは事実です。しかし、「それはなぜ?」というところにはいくつも理由がある。そして、それを組み立てていく過程で物語が生じてしまいます。

高校レベルでは暗記する仕方をしないと大学受験に受からないという現実がありますからね。正直なところ、私は大学入試から歴史の科目を落としたほうがいいと思っています。

本来、大学入試で見るのは頭の柔らかさだと思うんです。理系でいえば、数学は頭の柔らかい人が点を取れる科目です。では文系の頭の柔らかさをどうやって測るか。実は国語で充分なんですよ。論理的な文章を読んでしっかり理解できますかと。

東大の国語の問題を見ると、非常によく考えられています。それさえできれば、文系の学問は何を学ぶにしてもなんでも来い。そうすれば入試に社会科はいらなくなって、子供に暗記を強要しなくて済みます。

古代から近代まで全部かけ足で教える必要はないから、高校の授業を思い切って変えられることです。「暗記しなさい」から、「なんで君たちは明智が信長を襲ったと思うか?」を十分時間をかけて議論するという授業に切り替えることができる。

歴史観」というものがどうやってできるかについて話しましょう。歴史を研究するとき、我々研究者はまず、「史実」を復元することから始めます。これはいろんな歴史資料を読んで、どの資料が信頼に足るものかを比較検討しながらおこないます。

たとえば、本能寺の変なら、「100年後に書かれたものと事件がおこった2週間後に書かれたもの、どちらが信頼できる?」「信長の側近で命からがら逃げ出した人が書いたものと、九州の端にいた人が書いたものとどちらが信頼できる?」というようなことです。もちろんリアルタイム性が高ければ何でも信頼できるというわけではなく、少し離れていたほうが真実をつかんでいるという場合もある。そういうことも含めて、「歴史のソース」を一生懸命読み込んでいかないといけない。

これは歴史研究を志す大学院生がまずやるトレーニングです。こうやって、新聞記者が事件のウラを取るのと同じように、歴史のウラを取る。そうすると歴史のひとつの事件の真相が見えてきます。こうしたトレーニングをしないと、古文書や当時の貴族が書いた日記だとかを読み込むのは難しいんです。

次に、「史像」というものがあって、史実をいくつも並べていくと、歴史の流れがわかってくる。なるほど戦国時代ってこういう時代だったんだな、ほかの時代と比べるとこういう特徴があって、そのなかで本能寺の変っていうのはこうやって位置付けられるんだな、ということが見えてくる。史実を復元するには1年くらいかかりますね。そこから史像にたどりつくのは数年必要です。

それを繰り返しながら、戦国時代だけでなくその前の室町、鎌倉時代と比較した時にようやく歴史観というのが生まれてくる。そしてさらに広く、古代・中世・近現代と見ていきながら、歴史観というのを作り上げていく。これは並大抵のことではありません。そう考えると、ひとつひとつの歴史の資料を読み解くことから始めて、自分なりの歴史観を持てるようになる研究者はそうはいないんです。

昔の偉い先生方は、「死ぬ前に1冊本を書け」とよく言われていたんです。自分の歴史観に基づいて1冊本を書いて、死んでいく。今は大学も成果を求められるので色々本を書くようになりましたが、優秀な歴史学者でも「歴史観」にはなかなか到達できるものではないんです。どうしても時間がかかる。

それ以外で大きな仕事をしたのはやっぱり、徳富蘇峰幸田露伴森鴎外あたり。でも、彼らは大学人ではなくて、在野の人です。ただ、彼らは私たち現代の研究者以上に漢文や古典に親しんでいます。

d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp