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まとめれば結局コンピュータがいかに進歩しても決して
哲学者になれないということです。哲学は人知の根幹を
なすからコンピュータは決して人知を超えることができない
わけです。

コンピューターが人知の産物で、科学者は愚か。
というのが結論。

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 地球は北極がS極、南極がN極の巨大な磁石で、位置に応じて方向が異なる地磁気を帯びている。渡り鳥は地磁気を感じる能力をコンパスのように使って方位を正確に把握し、季節に合わせて移動している。

 人間の感覚は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感だけで、磁気を感じる力はないとされていた。

 研究チームは地磁気を遮断した室内で、日米など18~68歳の男女34人の頭部を地磁気と同程度の強さの磁気で刺激する実験を行った。その結果、磁気の向きに応じて無意識のうちに脳波が異なる反応を示したことから、人間は地磁気を大まかに感じ取る能力を持つと判断した。

 地磁気を感じる「磁覚」は渡り鳥のほかサケやミツバチなど多くの動物が持っており、人間も以前は持っていたが退化したとみられている。ただ、人体には磁気を感じ取る働きがあるとされるミネラルやタンパク質が多くあることから、利用できなくても感じ取る力は残っていたらしい。

 チームの真渓歩(またに・あゆむ)東大准教授は「人間に未知の第六感があることが確認された。これを意識的に利用することは非常に難しいが、今後さらに詳しく調べて探っていきたい」と話している。

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小室は、人類学の研究を進めていくにつれ、その研究対象が様々な未開社会の親族構造の研究にとどまっていることに不満を持ち、近代資本主義の解明のためには、ヴェーバーを学ぶ必要があると考えるようになり、大塚久雄から直接指導を受ける。そして、西欧において近代資本主義が発達したのは、宗教革命によって西欧社会のエートスが変化し、プロテスタントが禁欲的労働というエートスを得たからであり、このことから社会における「構造」が絶対不変のものではなく、変化し得るとのアイデアを得る。そして、このアイデアを構造機能分析に応用して、日本において資本主義が定着していったのは、西欧と日本は同じ禁欲的労働というエートスをもっているからであり、その日本における象徴が二宮尊徳であるとする。

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翁曰夫誠の道は、学ばずしておのずから知り、習はずしておのずから覚え、書籍もなく記録もなく、師匠もなく、而して人々自得して、忘れず、是れぞ誠の道の本体なる、渇して飲み飢えて食ひ、労れていねさめて起く、皆此類なり、古歌に水鳥のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけりといへるが如し、夫記録もなく、書籍もなく、学ばず習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり、夫我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす、予が歌に、音もなくかもなく常に天地は書かざる経をくりかえしつゝとよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるゝ、天地の経文に誠の道は明らかなり、掛る尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求る、学者輩の論説は取らざるなり、能々目を開て、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり、夫れ世界横の平は水面に至れりとす、竪の直は、垂針を至れりとす、凡此の如き万古動かぬ物あればこそ、地球の測量も出来るなれ、是を外にして測量の術あらんや、暦道の表を立てゝ景を測るの法、算術の九々の如き、皆自然の規にして万古不易の物なり、此物によりてこそ、天文も考ふべく暦法をも算すべけれ、此物を外にせばいかなる智者といへども、術を施すに方なからん、夫我道も又然り、天言はず而して、四時行はれ百物成る処の、不書の経文、不言の教戒則米を蒔けば、米がはえ麦を蒔けば麦の実法るが如き万古不易の道理により誠の道に基きて、之を誠にするの勤をなすべきなり。

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西南戦争は桐野の引き起こした『 桐野の戦争』だった 」という解釈が少なくないが、それだけの重要人物だと言うなら、桐野が、この頃、何を考えていたか、桐野が何を語っていたか、桐野が何を書き残しているか 、等は重要なはずだ。私は、最近、桐野利秋に関する本を二冊読んだ。あまり上等な著作ではないが、文献や史料など教えられるところは多かった。私は、桐野に関する認識と評価を大幅に変えた。「 鹿児島の封建主義的士族 」というイメージから、一種の「 民権論者」というイメージへ。薩摩藩士・市来四郎の『丁丑擾乱記 』の証言である。

《 世人はこれを(桐野 ) 武断の人というけれど もその深い事情を知らない。( 桐野は)明治六年の冬、辞職して帰省の後は、常に国事の救うべからざる惨状を憂嘆し、皇威が堕ちない策を講じ、国民を文明の枠に立てることを主張し、速やかに立憲政体に改革し、民権を拡張することを希望することにもっとも切だった。》( 市来四郎『丁丑擾乱記 』)

少なくとも、桐野利秋が「 民権論」や「 民権主義 」というものを知っており、それについて熱烈に語っていたということを知って、私は驚いた。私は、西南戦争は、大久保の「 近代主義」と西郷の「 封建主義 」との戦いだったという通説は間違いで、そうではなく、大久保の「国権論 」「 国家中心主義 」と、西郷や桐野の「 民権論」「 民衆中心主義」との戦いだったのではないか、と思うようになった。そう考えると、桐野が、西郷の後を追って、陸軍少将の職を辞し、さっさと帰郷して、農業や開墾事業を始めた理由がよくわかるような気がする。西郷が二度の「 島流し」で体得したものを、桐野は、故郷の大地での農業と開墾事業で体得したのではないか。

《 今の政府は今の国家の大讐 敵にして、今の蒼生( 人民)の怨望する所なり。このゆえに今の政府をと欲する者は、今の国家に不忠にして、今の蒼生を塗炭に苦しましむるに左袒(加担 )する者というべし。》
《 試しに米国の華盛頓( ワシントン)を見よ。英国の逆政を施すにあったって、あえて奔走せず、口を開かず、足を挙げず、潜に時の至るを待つ。そして起ち上がるや、向かう所敵は皆破れ、戦う所は必ず勝つ 。しかし、その話兵たちが携えているのは、皆農具や工器にすぎなかった。》( 桐野利秋の『時勢論』 )

桐野の農業や開墾事業は 、都市インテリがすぐ思いつきそうな「付け刃」のものではない。農業や開墾事業が素朴に好きだったというものでもない。桐野の農業や開墾事業は、民衆や民権論、民権主義と結びついた思想運動や政治運動、一種の「農本主義的民権論」でもあったと言うべきだろう。だからこそ、政府側の「 薩賊」「 賊軍」「 賊将」というプロパガンダにもかかわらず、民衆の圧倒的支持が西郷や桐野に向かうのではないか。何回も言うが、福沢諭吉中江兆民内村鑑三・・・というような一流の思想家や宗教家たちが、西郷や西南戦争に興味を持ち、西郷や西南戦争の思想的意義を高く評価するのも同様だろう。何故か。彼等は、敗者への憐憫の情から、あるいは判官びいきから 、そうしているのか。おそらくそうではないだろう。西郷や桐野の思想や行動の中に、民権論、民権主義、民権思想を見出しているからではないのか。福沢諭吉が、西郷の「 抵抗の精神 」を絶賛したのは、そういう思想的背景があったからっではないのか 。政府権力に立ち向かう民衆の「 抵抗の精神」。それに対して、大久保利通伊藤博文等が象徴する「 開明近代主義」とは、民衆を弾圧し、民衆を統制し、民衆を抑圧する「中央集権的独裁国家 」、あるいは「近代的警察国家 」にほかならないと考えたからではないのか。

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われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという こと。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づい て正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったと きには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の 権力を組織する権利を有するということ、である。もちろん、長年にわたり樹立されている政府を軽々し い一時的な理由で改造すべきではないことは思慮分別が示す通りである。従って、あらゆる経験が示すよ うに、人類は、慣れ親しんでいる形態を廃止することによって自らの状況を正すよりも、弊害が耐えられ るものである限りは、耐えようとする傾向がある。しかし、権力の乱用と権利の侵害が、常に同じ目標に 向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、その ような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが、人民の権利であり義 務である。これらの植民地が耐え忍んできた苦難は、まさにそうした事態であり、そして今、まさにその ような必要性によって、彼らはこれまでの政府を変えることを迫られているのである。現在の英国王の治世の歴史は、度重なる不正と権利侵害の歴史であり、そのすべてがこれらの諸邦に対する絶対専制の確立を直接の目的としている。このことを例証するために、以下の事実をあえて公正に判断する世界の人々に 向けて提示することとする。

天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ

第一論はロバート・フィルマーによる「国王の絶対的支配権は人類の祖アダムの子どもに対する父権に由来する」という王権神授説に対する反論である。