【今日の名言】「道にきいて,途に説く」ようななまかじりの知識をもつと,すぐに自分こそ「天下第一」とうぬぼれるが,これはその身のほど知らずをよく示すにすぎない.――毛沢東『実践論・矛盾論』「実践論」☞ https://t.co/jusXvZrF1F
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) 2019年4月10日
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孟子は譬えて説明することが巧みであり、用語はさし迫った強い言葉を使わぬが、〔読むものに〕自分ひとりで考えて自然に悟らせるのである。たとえば、その言葉に「およそ詩〔経〕を説くには、一つ一つの文字にとらわれて、一句の意味をとり損ねてはならぬ。また一句の意味にとらわれて、全体の意味(作者の真意)をとり損ねてはならぬ。つまりは、自分の心で作者の真意をよく酌みとって説いてこそ、はじめて詩が分るというものだ」というのがあるが、孟子のこの言葉は後の世の人々に作者の真意を深く探求させ、それによって全体の意味をよく理解させようとしたものであって、ただたんに詩を説く場合にのみ適用されるべきものではない。ところが、現今多くの注釈者は往々一字一句を拾いとって解釈をしておるだけで、〔とかく全体の意味がなおざりにされ〕、したがってまたその説くところは〔自然に作者の真意とかけはなれてしまい〕、殆ど各人それぞれに食違っていて同じではない。
新一万円札の渋沢栄一。その自伝『雨夜譚(あまよがたり)』は面白いですよ。なにしろ、農商の子として生まれ→攘夷を志す浪人となり→一橋家に仕官、ヨーロッパ訪問→明治維新により帰国、幽棲→朝命により明治政府に出仕、という波瀾万丈ぶり。24、5年間に4度の転生を重ねたと本人の語る半生です。 pic.twitter.com/GqCODG5Lvd
— 岩波文庫編集部 (@iwabun1927) 2019年4月10日
“令和は国書から初選出”に「昭和天皇」歌の指南役が異議 安倍首相の拘りが…https://t.co/ZlWSKFi3IK
— デイリー新潮 (@dailyshincho) 2019年4月10日
〈初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ〉
日本最古の歌集『万葉集』巻五の序文を典拠とする「令和」。日本の古典から初選出と政府は喧伝するが…
昭和天皇の作歌指南役も務めた国学院大学名誉教授の岡野弘彦氏(94)は総理の本懐に異を唱える。
「あの頃は中国の漢詩、漢文に憧れがある時代。西洋にかぶれるのと一緒です。大宰府(序文に続く歌が詠まれた場所)は当時、大陸から漢学が入ってくる場所でした。あの序自体には、そんなに深く読み解くべきものはない。書いた人間が外来文化が好きで、自己満足みたいな表現ですから。(新元号を選ぶにあたって日本の古典に)拠り所が欲しかったんでしょうけど、うーん」
岡野氏によると、
「『令』という字からは、どうしても冷たい印象を受けます」
国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏は、自身の著書を出す筑摩書房に対し、万葉集は「令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点です」とのコメントを送っていた
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#令和
元号と皇室の歴史を振り返る際に欠かせない一家がいる。東京大出身の漢学者を3代続けて輩出した「宇野家」だ。https://t.co/sQGLiNed1J
— 毎日新聞 (@mainichi) 2019年4月11日
元号と皇室の歴史を振り返る際に欠かせない一家がいる。東京大出身の漢学者を3代続けて輩出した「宇野家」だ。
「初代」の宇野哲人・東京大名誉教授(1974年死去)は、大学卒業時に成績優秀者として「恩賜の銀時計」を明治天皇から贈られた。漢学者として名を成し、皇太子さまの「浩宮徳仁(ひろのみやなるひと)」、秋篠宮さまの「礼宮文仁(あやのみやふみひと)」の命名に携わった。お二人の幼少時には、皇后美智子さまのご依頼で「論語」などを進講した。
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「日本家族法の父」
子供時代、祖父渋沢栄一の影響で論語に興味を覚えた。後にそれに関する著書もある。大学時代に宇野哲人が家庭教師であったが、家庭的論語講義をしたという。
東京大学時代は父の影響もあり、民法や社会問題に興味を覚えた。勉強法の記録が残っており、父の戒めとして「勉強度にすぐることなかれ、不規則な勉強をする勿れ、勉強して夜を徹することなかれ、毎日怠らず勉強せよ」とある。鳩山秀夫は最優等生と紹介され、重遠は大学の双璧とある。この2人は大学に残ることになる。卒業時は前者が92点、重遠は90点であった。また、大学時代の趣味は「観劇」「柔道」「水泳」「徒歩」とある。徒歩とは山登りであった。
1945年8月 東宮大夫、東宮侍従長に就任した。この理由として娘美代子が4歳時から照宮の遊び相手であったからという。1933年ころから、皇后、皇太后の御進講を行っている。また、1936年には御講書始めに「ギールケ著ドイツ団体法論」について進講し、外にも進講した。侍従長人事に関しては、1945年8月7日木戸内大臣が天皇に内奏し、天皇は「穂積とは重遠か、彼ならよし」との言葉があった。日光に疎開していた皇太子を訪れ、終戦を迎えた。当時の日記が残っている。皇太子の帰京には3か月かかった。重遠は、皇太子の教育機関である御学問所総裁でもあり、東宮ご教育係常任参与ともいう。皇太子の家庭教師エリザベス・ヴァイニング夫人雇用に関しては、頭越しであったので夫人とは、ややギクシャクしたものがあった。戦後の重遠は、英国留学時代を思い出し「アワ キング」(Our King) という言葉を使い、皇太子には常に「アワ キング」であって欲しいと思っていたとも言われる。しかし、圧力があり、1949年2月、重遠は最高裁判事に転出した。替わって東宮ご教育係常任参与になったのは、小泉信三であった。
1937年、帝人事件に際し友人である大久保偵次(当時大蔵省銀行局長)の特別弁護人になったことがあるが、裁判官は初めてであった。任期は4年ほどの予定であったが、予想外の死により2年余りとなった。その間、要求によりアメリカ視察旅行を行っている。最高裁判所時代に刑法200条の違憲説(少数意見)を主張した(昭和25年(1950年)10月11日(尊属傷害致死)及び同年10月25日(尊属殺)の判決)。彼の意見は「孝は百行の基」であるのは新憲法下でも不変であるが、かのナポレオン法典の「子は年齢の如何にかかわらず父母を尊敬せざるべからず」や、殺親罪重罰規定によって、親孝行を強制せんとするは、法律の限界を越境する法律万能思想であって、かえって孝行の美徳の神聖を害するものといってよかろう」というものであった。なお、彼の死後、刑法200条は1973年4月4日の大法廷判決により違憲と判決が下り、1995年に正式に削除された。
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