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昼食は「テラス・ドルチェ」に食べに行く。

おっ、「リオ」が営業している。高齢のマダムが体調を崩されてしばらく休業していて、このまま閉店に至るのではと思っていたが、営業再開はうれしいニュースだ。

「テラス・ドルチェ」に活気が戻ってきた。お店の方(若いマスターの妹さん?)にそういうと、「はい、そうなんです」と安堵されたように答えられた。全面禁煙に踏み切った直後は「今日はお休みかしら」と思うほど客が激減していたが、いままで近寄らなかった非喫煙の客が徐々に増えてきたのだろう。

焼肉ピラフのセットを注文。

以前、途中まで読んで止まっていた安藤宏『「私」をつくるー近代小説の試み』(岩波新書)を再び読み始めているのだが、本当に知的刺激に満ちた面白い本である。

「明治前半期にはさまざまな文化的な背景を持つ文体が林立していたが、やがてそのうちの一つに過ぎなかった「言文一致体」がヘゲモニーを握っていくことになる。写実主義の風潮のもとこの平明な文体は正確で客観的な表現を可能にする手立てとして期待され、三人称のよそおいが与えらえていった。その最大公約数的な合意として、「話者の顔の見えない話し言葉」が立ち上がっていくことになったわけである。/しかし考えてみると、匿名化し、誰が話しているのかがわからないこの文体はたしかに奇妙なものだった。ほどなくしてその反動が現れ、今度は明確に話者の「顔」を表に出す「ひとりごと」化が進んでいくことになる。背景には近代個人主義の浸透があったわけだが、ひとたびその理念が称揚されるようになると、今度はその「ひとりごと」に対する反発が生じ始めることになる。あらためて「言」の持つ対話の息吹を注入しようとする動きが現れ、書き手から読み手への「呼びかけ」文体が現れるのである。ただし書き言葉である以上、実際にはバーチャルなものでしかない「あなた」をも求めるこの企ては、語り手の自意識過剰を招き寄せることにもなるのだった。」(67-68頁)。

と、この部分だけ引用すると高度に抽象的な議論のように見えるが、「話者の顔の見えない話し言葉」の例として夏目漱石、「ひとりごと」の例として志賀直哉、「呼びかけ」の例として太宰治を取り上げて、その文体を具体的に分析していく手際は見事である。

駅ビルで今日の演習で配るスイーツ(35個)を買っていく。

5限は演習「現代人と社交」。3つの大テーマ(若者の友人関係、サードプレイス、通りすがりの人たちとの社交)を与え、発表の単位となる3、4人一組の小グループ を話し合って決めてもらう。

演習を終えて、研究室に戻り、しばらくすると卒業生のキョウコさんが仕事終わりにやってきた。彼女は国会議員の秘書をしているのだが、議員会館売店で売っているおまんじゅうをお土産に持ってきた。右翼っぽいね(笑)。

「すぎうら」へ行く。

先日の統一地方選挙では荒川区の候補者の応援に行ったそうである。荒川区と聞いて思い浮かんだ顔があるので、その候補者の名前を聞いたところ、「清水ひろし」とのことだった。彼のことは知っている。二文の卒業生である。(いい意味で)生意気な学生だった。キョウコさんは私と清水君が知り合いだったと知ってびっくりし、その場で彼にメールを送った。すぐに彼から「大久保先生が自分のことを覚えているとは!」と返信があった。私が彼のことを覚えているのは、何かの件で彼と授業中に口論をしたことがあったからである。教師と授業中に口論をする学生というのはいまでは絶滅危惧種だが、20年前の当時でも珍しかったのである。卒業してしばらくして彼が政治の道を志して区議会議員に立候補したと聞いたときは、「彼ならやれるだろう」と思ったものである。今回で4期連続の当選である。現在43歳。「体は細いが、芯は太い」がキャッチフレーズとのことだが、40代は働き盛り、健康管理に留意して頑張ってください。

食後のお茶は「カフェゴトー」で。

数年前のことになるが、早稲田大学をはじめとする都内の大学で地方出身学生の割合が減少傾向にあるという報道に接したとき、意外な気がした。早稲田大学と言えば、各地から学生が集まるイメージがあったからだ。しかし、実際に教員として教え始めてみると、もちろん留学生にも地方出身の学生にも出会うが、確かに首都圏出身の学生が多い。

こうした背景には、経済的な要因などとともに、若い世代の「地元志向」があると言われ、後者の理由については好意的な見方もあるだろう。ただ、私自身の実感も込めて述べるなら、生まれ育った場所とは異なる地での生活を(自らの意志により)経験することは、大いに意味があると思っている。かく言う私は地方の出身で、大学入学を機に上京し、その後は外国留学を経て、出身地域とは異なる地方にもくらした。そして、それぞれの地で、ふとした瞬間にこれまでの自分の常識が通用せずに戸惑い、結果、それがある種の思い込みに過ぎず、別のものの見方・考え方があることに気づかされる経験をした。それは、この地方にはこんな珍しいものがあるとか、こういう施設がないとか、そういった表面的なことではなく、自分のものの見方がいかに一面的であったかを痛感させられるような体験であった。

無論、こうした気づきは、住む場所を変えなければ得られないというものでもない。学生の皆さんには、日本の各地や国外での活動やフィールドワーク、さらには、様々な立場の人たちと話をし、本を読むことなどを通じ、多様なものの見方・考え方に接する経験をしてほしいと願っている。