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昼食は「たかはし」へ食べに行く。

焼き魚(鯖みりん干し)定食。

夕食はサーモンのムニエルきのこソースがけ、玉子焼き、サラダ、ワカメの味噌汁、ごはん。

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ご主人:うちはこの場所で3代目、100年営業してるけど、40年前と比べると遊びに来る客も減ったよねぇ・・・。タクシーがどうやっても拾えないくらいだったもん。草食系男子が増えたからさぁ。

奥さん:大手の建設会社が接待でソープ使ってたから、10人連れで一軒貸切にしちゃって。バレンタインの時期になると、女の子がお客にプレゼントするってんで、ドンペリとかヘネシーの予約がいくらでも入ったのよ。

ご主人:うちの店の前を女の子が通勤で通るんだけど、その頃は高級ブランド服でビシッときめてたんだよ。でも今はジーパンに普段着だからね。どの子がお店の子か分からないよ(笑)。昔ほどは稼げないんだろうね。

奥さん:バブルの頃はタバコが売れて売れて。うちは履物も扱ってるんだけど、タバコだけで暮らしていけるくらい。ソープの女の子が、種類ごとにカートンで買っていったのよ。お客さんの好みの数だけタバコを用意するから。今はタバコも売れなくなっちゃって、コンビニもできたし。

横田:昔は、成人男子の場合、タバコを吸う人が多数派でしたもんね。映画で会議のシーンなんかがあると、部屋中モクモクでやってましたよね(笑)。この角でずーっとソープ街をご覧になってて、風景もだいぶ変わりました?

奥さん:そうね、街がどんどん汚くなってきたように感じるわね。昔はとても綺麗だったの。店の前の道の植え込みは、4月は桜、5月は菖蒲って季節ごとに変えていたのよ。うちも桜の季節は、桜柄の暖簾を掛けたりね。

商店の親父さん、女将さんたちは、色街の中にも魚屋、肉屋などさまざまな商店が軒を連ね、どこも流行っていたと口を揃える。以前は小料理屋などの飲食店も多く、人通りも多かった。バブル期はタクシーもつかまえにくく、当時は風俗店への送迎もなかったので、三ノ輪駅や浅草側からゾロゾロと連なって歩く男たちの姿も見られたほどだ。今、そういった人影はほとんど見ない。

横田:浅草界隈は露店商、テキヤさんとも言いますが、彼らが今も昔も多い土地ですよね。地元にも根付いてる。酉の市とか、彼らがいなかったら始まらないですよね。テキヤは今いろいろ調べてるんですが、勤め人にならなかった「元気のある」人たちの受け皿になっていた側面があります。こういうところも減っていくなら、昔だったら受け止めてもらえた若い人は、どこにいくんだろうって思いますね。

横田:大将、看板に「お待合せ処」って書いてありましたけど、ソープのお姉さんとお客さんが待ち合わせるんですか・・・?

大将:何言ってんの、違うよ! 昔は、まぁバブルの頃だけど、仲間や職場の男たちがみんなで来て、三々五々ソープで遊んだ後に、うちみたいな居酒屋なんかに集まって反省会してたの。「おまえ、どうだった?」とか「オレはついてたよ〜!」とかね(笑)。僕は今年82歳。ここで生まれてここで育ってね。昭和20年の大空襲のときなんて、防空壕から飛び出したらB29が空をたくさん飛んでてさ。あくる日、一面焼け野原だよ。そんな時代も見てきた。

渡辺:1945年3月10日のいわゆる下町大空襲ですね。

大将:ソープもさ、今は0時までにお客さんも女の子もシャッターの外に出さないといけないけど、昔は0時までにお店の中に入れば良かったんだよ。それで、2時3時になって店から出てきた女の子が飲みに来て、うちも夜中まで賑わって。1個12,000円のアワビをみんな頼んでくれたりさ。バブルの頃は、そりゃあ景気が良かったよ。あのときの女の子が「子ども産んだから見てよ〜!」なんて顔見せに来てくれることもあるよ。

渡辺:吉原で働いたことは決して後ろめたいことばかりではなくて、良い思い出、それも街と関わりながら働いていたことが、思い出になってるんですね。