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今回見つかったのは、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、事件の推移を分単位で記録した海軍の極秘文書です。

昭和天皇の発言は、海軍の作戦を統括する軍令部のトップ、伏見宮軍令部総長との事件発生当日のやり取りとして記録されていました。

昭和天皇は「上」と記され、「艦隊の青年士官の合流することなきや」と述べ、軍令部総長に対し海軍の青年将校たちが事件を起こした陸軍の部隊に加わることはないのかと、懸念を示していました。

これに対し、軍令部総長加わることはないと答えますが、昭和天皇は事件に対処するため出動した海軍の陸上部隊について、「指揮官は部下を十分握りえる人物を選任せよ」と指示し、指揮官の人選にまで注文をつけていたことが記されていました。

二・二六事件の際、昭和天皇は断固鎮圧を貫いたとされていますが、発言からは、海軍まで企てに同調し、事件が拡大することはないか懸念していた様子がうかがえます。

専門家は当時の天皇と軍の関係を知るうえで極めて貴重な資料だと指摘しています。

天皇制に詳しい名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は「昭和天皇は、二・二六事件が自分に対するある種のプレッシャーだと感じていて、海軍でも同じような動きがないか心配していたことを示していると思う。疑心暗鬼になっていたが、『加わることはない』と言われたからこそ、自信を持って陸軍に強くあたることができたのではないか」と話しています。

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。
その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

さらに昭和天皇サンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。

そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。

また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。

そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまでいろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。

日本の近現代政治史が専門で、一橋大学の吉田裕特任教授は「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。

そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。

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