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かんぽ生命の保険をめぐっては、顧客が保険料を二重で支払うなどの不適切な販売が問題になり、会社は今月18日、法令や社内ルールに違反する疑いのある販売が1万2800件余り確認され、実際に違反が認められた契約も670件に上っていることを明らかにしました。

関係者によりますと、この問題で日本郵政長門社長のほか、保険の販売を担う日本郵便の横山邦男社長、それに、かんぽ生命の植平光彦社長の3人が経営責任を明確にするため、そろって辞任することになりました。

この問題では、金融庁が27日、かんぽ生命と日本郵便の内部の管理体制に重大な問題があったとして業務の一部停止命令を出すほか、総務省日本郵政日本郵便行政処分を行う予定です。

日本郵政長門社長は記者会見で「しかるべき経営責任をしかるべきタイミングで示す」と述べていましたが、金融庁総務省が経営責任を明確にするよう厳しく求める方針の中で、辞任は避けられないと判断したとみられます。

これらの人事は、会社が27日開く指名委員会や取締役会を経て発表される見通しで、不適切販売の問題が、42万人の社員を抱える巨大グループの経営トップの辞任に発展することになります。

NHK経営委員会は任期満了で退任した石原進前委員長の後任について、24日、委員による互選を行い、全会一致で委員長職務代行者を務める森下俊三氏を新しい委員長に選びました。

森下氏は74歳。昭和45年にNTTの前身の日本電信電話公社に入り、その後、NTT東日本の副社長やNTT西日本の社長などを経て、平成24年から阪神高速道路の取締役会長を務めています。NHKの経営委員には、平成27年3月に就任し、去年3月からは委員長職務代行者を務めています。

森下氏は、記者会見し「NHKには、テレビ放送のインターネットへの同時配信のスムーズな実現や、三位一体改革の推進、新たな受信料制度の研究、次期経営計画の策定など、大変重要な課題がある。視聴者・国民の皆様から預かる受信料で成り立っている公共放送として、NHKがより一層信頼され、放送法で定められた役割をしっかり果たしていけるよう、執行部ともよい緊張関係を保ちながら務めていきたい」と抱負を述べました。

また、24日の経営委員会では、森下氏の後任の委員長職務代行者に、同志社大学法学部教授の村田晃嗣が就任することも決まりました。

外務省が、25日公開した6000ページ余りの外交文書のうち、昭和30年8月、アメリカで行われた、当時の重光外務大臣とダレス国務長官との会談の記録では、1年前に自衛隊が発足する中、アメリカがほかの国から攻撃を受けた場合の日本の対応について意見が交わされています。

この中で、ダレス長官は「日本はアメリカを守ることができるか。例えば、グアムが攻撃された場合はどうか」と質問したのに対し、重光大臣は「自衛が目的でなければならないが、兵力の使用について協議できる」と述べていました。

さらに、ダレス長官が「日本の憲法が許さなければ意味がないと思うが」と問うと、重光大臣は「自衛であるかぎり協議できるというのがわれわれの解釈だ」と重ねて主張し、ダレス長官は「全く新しい話だ。日本が海外出兵できるとは知らなかった」と応じていました。

これについて、日米外交史が専門の日本大学の信夫隆司教授は「当時の日本の基本的認識では、集団的自衛権は行使できず、自衛隊の海外出兵はできなかった。重光氏は、安保条約改定問題もあり、日米を対等な形に持っていきたいということだったのだろう。重光氏が述べたことは、安倍政権が閣議決定した集団的自衛権行使の限定的容認と同じような主張だったと読み取れる」と指摘しています。

外務省は作成から30年以上が経過した公文書のうち、公開しても支障がなく、歴史上、特に意義があり、国民の関心も高いと判断した文書を、毎年1回公開しています。

今回、公開されたのは、1988年に中曽根前総理大臣がソビエトを訪問してゴルバチョフ書記長と会談した際の記録や、当時の竹下総理大臣の中国訪問に関係する文書、1972年の沖縄返還に関係する文書などを含む15のファイルで、合わせて6000ページ余りです。

この中には、極秘扱いとされていた公電が含まれる一方、現在の外交交渉への影響を考慮したり、現在も外務省の情報源である人物の名前があったりする部分などは一部が黒塗りになっているものもあります。

公開された文書は、外務省外交史料館のホームページに、25日から掲載されるほか、外交史料館では原本を閲覧することもできます。

1972年の沖縄返還に伴い、いったん撤去したアメリカ軍の核兵器について、有事が起きた場合には、再び沖縄に持ち込むことを、当時の佐藤栄作総理大臣が、1969年11月の日米首脳会談で、容認したと読み取れる極秘文書が存在することから、専門家の間では、そうした密約があったと指摘されています。

ただ、9年前に日本政府が設けた有識者委員会の検証では、「文書をのちの政権に引き継いだ節は見られない」などとして、「必ずしも密約とは言えない」としています。

これに関連して外務省が25日公開した公電では、首脳会談の20日後の1969年12月、ワシントンの日本大使館公使で、沖縄の返還交渉に携わった、吉野文六氏と見られる人物がアメリカ国防総省の元高官と非公式に意見交換した内容が含まれています。

公電には、日本側の高官の名前はヨシノとだけ、カタカナで記され、アメリカ側の元高官の名前は明らかにされていませんが、複数の専門家の分析によると、直前まで、国防次官補代理を務め、返還交渉を担当したモートン・ハルペリン氏とみられます。

公電でアメリカの元高官は、沖縄の核兵器の撤去をめぐって、「過去3年間、激しい論争が続けられていて、国防長官は、『沖縄に核を置く必要なし』とする立場だが、軍は常に反対してきた。このため、再び持ち込めることを条件に軍当局を説得した。だが、日本の世論を尊重して核を撤去する以上、もはや、再び持ち込む事態は起こりえないと思う」と述べています。

さらに、「本当に核を使う必要のある緊急事態であるならば、『まず沖縄に持ち込み、そこから発射する』といった面倒なことはせず、直接、グアムから爆撃機で運ぶなどして使うことになるだろう」と強調しています。

沖縄の返還交渉に詳しい九州大学大学院の中島琢磨准教授は、「当時、アメリカ軍は、沖縄に核兵器を貯蔵しておきたいと判断し、国防総省と非常に対立していた状況が見えてくる。核兵器の再持ち込みという条件が国防総省と軍部の折衷案のような形になっている。実際に核密約が結ばれた時にはハルペリン氏は政権内にはいないが、沖縄返還に向けて政策調整をしていた人物がこのように発言していた意味は大きい」と指摘しています。

今回、外務省が公開した外交文書のうち、昭和63年3月、当時の竹下総理大臣に対する中国訪問に向けた説明の記録では、中島敏次郎・中国大使との間で中国が反発する靖国神社参拝の是非を検討したやり取りが記されています。

この中で、中島大使は「国内的に種々、困難な事情があることは十分理解しているが、訪中直前ということもあり、靖国参拝は絶対に避けていただきたい」と進言したのに対し、竹下総理大臣が、「その点はよく心得ている。ただし、絶対に外に言ってはならない」と述べています。

また、同時に公開された当時の村田良平事務次官の中国出張の報告書で、村田次官は、竹下総理大臣が中国訪問時に経済協力を打ち出す際には、「中国側が受け入れやすい表現で、謙虚な伝え方がよいと考える」と進言しています。

外交史が専門の筑波大学の波多野澄雄名誉教授は「当時、中国では、経済大国となった日本が軍事大国化するという懸念が広がっていた。靖国問題などで不安定になっていた日中関係を修復したいという意思が外務省の対応に見て取れる」と分析しています。

外務省が25日公開した6000ページ余りの外交文書のうち、1988年7月、前の年に総理大臣を退任した中曽根氏と、当時のソビエトゴルバチョフ書記長との会談の記録では、北方領土問題をめぐり、意見を交わしたやり取りの詳細が記されています。

この中で、中曽根前総理大臣は「われわれは、まず戦後の日ソ関係がどこからできたか、その基礎に何があったか、原点たる日ソ共同宣言に戻るべきではないか」と述べ、「平和条約締結後に歯舞群島色丹島を日本に引き渡す」とした1956年の日ソ共同宣言を基礎に北方領土問題の前進を求めました。

これに対し、ゴルバチョフ書記長は「共同宣言で、ソ連は日本との関係正常化のために歩み寄り、2つの島を返そうという立場をとった。しかし、日本は4島返還を要求した。ソ連は善意を示したが、日本はこれを受け入れなかった」と述べ、いったんは反論しました。

一方、中曽根氏は、「領土が直ちに返ってくるとは思っていないが、よく研究してほしい」と述べ、ゴルバチョフ氏にたたみかけました。これに対し、ゴルバチョフ氏は、「われわれのアプローチの違いはある。しかし、何とか何かを考えださねばならないと思う。お互いにどうすればよいのか、もう一度考えてみなければならない」と述べ、問題解決を模索する考えを示しました。

日ロ関係が専門の法政大学の下斗米伸夫名誉教授は北方領土問題の交渉を含む日ソ関係が、この中曽根訪問で始まったと言える。日本の論理を、ソ連の当時の書記長が初めてきちんと聴き、領土問題を考えるきっかけになった」と述べ、ソビエトの最高指導者が、北方領土問題を議論のそ上に載せることを認めた形となり、意義があると話しています。

会談はその後、ゴルバチョフ氏の日本訪問にもつながり、交渉の進展へ期待感が高まりました。

しかし、その半年余り後にソビエトが崩壊し、その訪問が直接、問題解決には結び付きませんでした。

下斗米名誉教授は、中曽根氏の働きかけが、ソビエト崩壊の時期に近かったことが悔やまれるといいます。

下斗米氏は「ソ連が崩壊するとは、その頃、誰も考えていなかったこともまた事実だが、見極めが日本側は遅かったと思う。タイミングにきちんと応じられるかが非常に重要だ」と指摘しています。

#日露

アメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設計画で、日米両政府は、2013年にまとめた返還計画で、埋め立てなどの工期は5年で、早ければ2022年度に普天間基地の返還が可能になるとしていました。

しかし、大幅な地盤改良が必要になったため、防衛省は設計の見直しを進め、25日開かれた土木や地質などの専門家でつくる検討会に工期と経費の概略を示しました。

それによりますと、地盤改良や埋め立てなどに、およそ9年3か月かかり、飛行場としての機能を持たせる整備も含めると完成まで工期はおよそ12年かかるとしています。このため、普天間基地の返還時期は、2030年代に大幅にずれ込む見通しです。

また経費について政府は少なくとも3500億円と見積もっていましたが、大幅に増え、当初の2.5倍以上となる、およそ9300億円に上るとしています。

さらに、軟弱な地盤を強固にするため、およそ7万7000本のくいを打ち込み、3年8か月かかるとした試算も見直し、3年半ほどかけて、およそ7万1000本のくいを使い、この工事だけで、およそ1000億円かかるとしています。

防衛省は今後、設計の変更を沖縄県に申請することにしていますが、沖縄県は認めない方針で、工事はさらに長期化する可能性もあります。

沖縄県の謝花副知事は、記者団に対し、「普天間飛行場の危険性の除去という問題の原点に返るならば、やはりもう一度立ち止まり、政府も工事を止めて、国民的議論をしっかり踏まえて再検討するよい機会ではないかと思う。まずは話し合いをする方向に、チェンジしてもらいたい」と述べました。

また防衛省が今後、設計の変更を申請した場合について、「係争中でもあるので、どういった対応になるかは、その段階でまた考えたい」と述べるにとどめました。

河野防衛大臣は25日夕方、記者団に対し、「安全確保のための警備や、軟弱地盤の工事などが加わったので、必要な分を計上した。アメリカ側とも、しっかり調整していきたいし、沖縄県側の理解と協力を求めていきたい」と述べました。

そのうえで、「『辺野古が唯一の解決策』ということに変わりはない。普天間基地の危険性の除去は、沖縄県も同様の考えだと思っているので、変更申請について、適切に処理してくれると思っている」と述べました。