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 源平の合戦を題材にした「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」について中村吉右衛門さんに語っていただく。「俊寛(しゅんかん)」「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」と並び、「何よりも好きで何よりも残したい歌舞伎」という。

 全五段の中で上演頻度が高いのが三段目の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」。意表を突いた展開の中に親子の情や戦争の悲しみなどさまざまな思いが込められた芝居である。

 熊谷直実は元は後白河法皇に仕えていたが今は源氏方の武士。前段の「陣門・組討」で平敦盛を討った熊谷は自身の陣屋に戻る。熊谷は後白河法皇の落とし子でもある敦盛を助けるため、わが子の小次郎を身代わりに立てて殺害していた。

 吉右衛門さんの熊谷初演は1970年。実父の初代松本白鸚(はくおう)に教わった。熊谷は、自分が殺したのは敦盛だと周囲を偽っている。最初の花道からの出で熊谷は陣屋を見て立ち止まり、右手首にかけた数珠に目をやり、懐にしまう。「実父には、一番難しいのは、この出で、そこで無常(人生のはかなさ)を悟った人であることを表さないとだめだと言われました」

 後年、熊谷を得意とした明治の名優九代市川団十郎の熊谷の出の写真を目にした。「その熊谷の目が悟っていて無常を感じている。芝居をしているはずなのに、本当にそう見えます」と感嘆する。

 陣屋には小次郎の母である熊谷の女房相模、敦盛の母藤の方、奥には熊谷を疑う梶原景高も来ていた。熊谷は源義経の前で敦盛の首実検に臨む。

 相模と藤の方の前で、熊谷が敦盛を討った経緯を語るのが「物語」。実は小次郎である敦盛、敦盛を早く討てと熊谷に声を浴びせかける平山武者所など「陣門・組討」の登場人物がそこに実在するかのごとくに語ることが必要とされる。

 「成駒屋のおじさん(中村歌右衛門)に、『初代(吉右衛門)の物語は良かった。敦盛も平山もみんな出てきた』と言われました。お客様に、本当にその人物がいるかのように見える。それこそ名人上手です」

 義経は初段で熊谷に、桜の1枝を切ったら、指1本を切るという趣旨の文言が書かれた制札を渡し、暗に敦盛を助けるようにと伝えている。敦盛の「首実検」は義経と相模、藤の方の前で行われる。「熊谷は仰せの通りにしましたよ、いかがですかと心の中で義経に問いかけます」

 子を失い無常を感じた熊谷は僧の姿で陣屋を立ち去る。吉右衛門さんの演じ方では熊谷が兜(かぶと)を脱ぎ、鎧を取ると頭を丸め、墨染めの衣を身にまとっている。熊谷は花道で、「十六年は一昔」と口にする。16歳の小次郎を亡くした悲しみが表れる。「兜を取った瞬間に実際に肩の荷が下りた感じがします」

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 大学生の頃私は何度か父と一緒に歌舞伎を観る機会がありました。父母のほかに、終戦時の総理大臣であった鈴木貫太郎氏の未亡人も御一緒だった事があります。たまたまその月の出し物に「先代萩」がありました。幼君を守ってさまざまに苦慮する政岡の芝居に鈴木夫人はハラハラと落涙され通しでした。芝居がはねてから夫人は、
 「お上のお側にお仕えして居りました頃を思い出しまして」
と又少し涙ぐまれました。夫人は貫太郎氏と結婚される前は宮中の女官としてまだお若い天皇陛下のお側近くに居られた方でした。当時は軍に不穏な動きがあったりして陛下の周囲の人々は緊張した生活を送られたのだそうです。
 父はと言えば、先代吉右衛門演ずる「熊谷陣屋」の熊谷蓮生坊が花道の引込みで、「十六年は一昔、夢だ夢だ」と述懐するところでハンカチを目にあてて居りました。
 父や鈴木夫人のように様々な人生体験を重ねてくると、芝居の中にも単なる絵空事でなくふと自分の人生の一齣をかいま見ることがあるのでしょう。

#宝塚

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#勉強法

スマホとバッテリーを一緒に充電できるというわけです。

このバッテリー、急速充電器の機能も備えているためか、ちょっと大きくて重い……。

重さは約189g。

スマホをもう一台持つくらいの重量でしょうか。

お出かけの時にポケットに放り込めるような身軽なサイズ感ではありませんが、急速充電もできるし、コンセントの使えるカフェに立ち寄ったりする場合なんかにはとてもいいですよね!