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『父 安岡正篤を語る』
P81

 結局姉は四十九歳で父母より先に逝ってしまいましたが、姉の訃報の入った真夜中に父母の部屋へ行ってみますと、父はお仏壇の前に坐って声をださずにお経本を読んで居りました。父とその後に坐った母と二人の目からとめどなく流れていた涙を私は忘れることが出来ません。
 姉が亡くなった後暫くの間、二階の書斎に居る父のところへお茶を持って行くと、父は机に向かって坐ったままぼんやりと窓から外を眺めていることがよくありました。姉の死とその二年後に訪れた母の死とが、老境の父に与えた痛手ははかりしれないものがあったのだろうと思います。
 大学生の頃私は何度か父と一緒に歌舞伎を観る機会がありました。父母のほかに、終戦時の総理大臣であった鈴木貫太郎氏の未亡人も御一緒だった事があります。たまたまその月の出し物に「先代萩」がありました。幼君を守ってさまざまに苦慮する政岡の芝居に鈴木夫人はハラハラと落涙され通しでした。芝居がはねてから夫人は、
 「お上のお側にお仕えして居りました頃を思い出しまして」
と又少し涙ぐまれました。夫人は貫太郎氏と結婚される前は宮中の女官としてまだお若い天皇陛下のお側近くに居られた方でした。当時は軍に不穏な動きがあったりして陛下の周囲の人々は緊張した生活を送られたのだそうです。
 父はと言えば、先代吉右衛門演ずる「熊谷陣屋」の熊谷蓮生坊が花道の引込みで、「十六年は一昔、夢だ夢だ」と述懐するところでハンカチを目にあてて居りました。
 父や鈴木夫人のように様々な人生体験を重ねてくると、芝居の中にも単なる絵空事でなくふと自分の人生の一齣をかいま見ることがあるのでしょう。
 二十歳の私が見たものは浅く、流した涙も軽いものだったと思います。この頃になって私も、好きな能の舞台を見ながら、曾ては味わう事の出来なかった物を味わい、観ることのかなわなかった物を観る力が少しはついて来たように思われます。
 最近も「景清」という能を見ていて
 「この世はとても幾程の命のつらさ末近し。はや立帰り亡き跡を弔い給へ盲目の暗き所の燈火悪しき道橋と頼むべし。さらばよ留る行くぞとの唯一声を聞き残す、これぞ親子の形見なる。これぞ親子の形見なる」
と、盲目の悪七兵衛景清が訪ねて来た娘を見送ってじっと立ちつくす後姿と、見所にかすかに伝わってくる杖の音に、若い頃は決して味わえなかった深い深い味の涙が流れるのを止めることが出来ませんでした。
 親の心が本当にわかるようになった時は親はもういないのだという平凡な真理を、今しみじみと味わっているところです。