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都によりますと、感染が確認されたのは10歳未満から90代までの男女合わせて327人です。

年代別では、
▽10歳未満が4人
▽10代が13人
▽20代が86人
▽30代が64人
▽40代が69人
▽50代が36人
▽60代が21人
▽70代が19人
▽80代が8人
▽90代が7人です。

都内で1日の感染の確認が300人を超えるのは12日連続です。

これで都内で感染が確認されたのは合わせて4万3704人になりました。

一方、都の基準で集計した5日時点の重症の患者は、5日より1人減って54人でした。

ロッキード事件は旅客機販売の商戦で起きた。ロッキード社はマクダネル・ダグラス社(MD)を抑えて全日空から受注を獲得し、勝利した。だが、ロッキード社から5億円のわいろを受け取り、「巨悪」とされた田中角栄ロッキード社を勝たせた最大の功労者というわけではなかった。

ロッキード社が危うくダグラス社に敗北しそうになった「最大の危機」で、ロッキード社のために大きく貢献したキーマンは、実は当時の通産相中曽根康弘(後に首相)だった。ロッキード社元副会長カール・コーチャンが、回想録と嘱託尋問での証言でその事実を如実に語っている。

激しい商戦の舞台裏では、「インテリジェンス」が微妙に絡んだ人脈が力を発揮していた。窮地に陥ったロッキード社のために、形成を逆転させるよう中曽根に依頼したのは戦後日本の黒幕、児玉誉士夫だ。児玉は米中央情報局(CIA)の協力者だった。

ロッキード事件が表面化した直後、中曽根は大胆にも、アメリカ大使館員に事件を「もみ消す」よう求めた。その大使館員はCIA工作員だった疑いが濃厚だ。

なぜ事件にCIAが絡んでいたのか。『ロッキード疑獄』第三部では、岸信介元首相や児玉ら、戦後の「敗戦処理」から「経済発展」に至る日本の舞台裏で暗躍した政界と闇世界の紳士たちがCIAとどのようにかかわっていたのか、探っていきたい。

ロッキード事件はまさに、残された課題の方が大きかった。児玉誉士夫から先に広がる闇を暴くことができなかったからだ。その闇に棲む「本当の巨悪」は、ロッキード社、丸紅から田中角栄全日空とつながったルートとは比較にならないほど巨額の金が動いた。

田中の起訴から1カ月足らず、米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ小委)で、ダグラス・グラマン事件発覚の導火線となる証言が出た。この事件では、岸や米国の大物フィクサーハリー・カーンらが関与していた。

カーンらは、占領下の民主化を打ち止めにして、経済復興を優先し、日本を「反共の砦」とする「逆コース」を演出した人脈を形成していた。1948(昭和23)年12月23日に東條英機A級戦犯7人が絞首刑に処され、その翌日に釈放された19人の戦犯容疑者の中に児玉と岸はいた。岸をアメリカに紹介したのが、当時のニューズウィーク誌外信部長、カーンだった。彼は何よりも利権に聡かった。

彼らは日本経済の発展に伴い、防衛力を強化した日本に米国製軍用機を売り込む利権に群がり、日米の人脈と金脈を形成した。これは、日米安保関係の土台に巣食った構造汚職だったのだ。その構造が暴かれなければ、「ロッキード」と「ダグラス・グラマン」の二つの事件が解明されたとは言えない。

日米間の戦後最大のビッグイベント、「安保条約改定」沖縄返還。いずれも「密約」なしに日米は合意できなかった。それを為したのが、岸と佐藤栄作の兄弟首相だったという事実がそこに重なっている。

児玉は大物右翼で、戦前に中国へ進出し、外務省および陸軍参謀本部の嘱託として、汪兆銘傀儡政権の樹立工作に関わった。さらに、海軍の軍需物資を調達する「児玉機関」を上海に設立。終戦直前に児玉機関の資産をひそかに日本に空輸して、帰国。

戦後、「戦犯容疑者」として巣鴨刑務所に3年間近く拘留されたが、米情報機関との関係を開拓し、黒幕稼業で稼いだ。情報機関で言う「秘密工作」さながらの手法で、闇世界の紳士たちを使い、汚い手を凝らしてロッキード社のために働いたのだ。

児玉は、1911年(明治44年福島県に生まれた。12歳の時に家を出て上京。赤尾敏黒竜会の内田良平ら、右翼の大物との関係を深め、右翼テロ活動にも手を染めた。

児玉が秘密工作や情報工作に開眼したのは、1937年(昭和12年)のこと。当時の外務省情報部長、河相達夫から「ぜひ中国大陸へいって、……あちらの実情というものを、じっくりたしかめてくる必要がある」と言われ、必要な費用を出してもらって、その年に中国大陸に渡ってからのことだった(注1)。外務省や陸軍参謀本部の嘱託として、汪兆銘の傀儡政権樹立工作にも関わった。

真珠湾攻撃の直前に、先輩格の国粋大衆党笹川良一総裁に紹介され、会った海軍航空本部の山県正郷中から頼まれて、児玉は上海に「児玉機関」を設置した。海軍のために軍需物資を調達する機関である(注2)。

児玉機関は発足時の資金が150万円だったが、それから2年後には、従業員200人を擁するまでに成長した。海軍が惜しみなく予算を充て、児玉機関は拡大していった。

児玉は敗戦直前、ひそかに帰国し、1945(昭和20)年8月15日の玉音放送の2日後に成立した東久邇(ひがしくに)内閣で、「内閣参与」に就任する。しかし、同内閣は2カ月ももたず総辞職。翌46年1月、児玉はA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨刑務所に約3年間収容された。

1948年12月23日、東條英機A級戦犯7人は絞首刑に処せられたが、児玉は岸信介(後に首相)、笹川良一ら大物戦犯容疑者計18人とともに翌日、釈放された。

釈放された児玉や笹川ら「戦犯容疑者」は免罪され、アメリカに利用されることになる。

終戦後、アメリカは当初、日本改造に乗り出し、「民主化」を推し進めた。しかし、平和への模索は新たな冷戦への序曲にすぎなかった。

1946年チャーチル英国首相の「鉄のカーテン」演説、47年トルーマン米国大統領の「トルーマン・ドクトリン」と「ソ連封じ込め」政策、49年の中華人民共和国成立、50年朝鮮戦争の勃発と続き、東西冷戦が激化すると、アメリカは政策を180度転換、日本を「逆コース」にはめ込んだ。

戦争犯罪の追及をやめ、日本経済を復興させて、日本を「反共の砦」にする戦略である。

その後の児玉の黒幕としての活躍ぶりは、ロッキード事件の表面化まで続いた。その源泉は、一体どこにあったのか。

筆者は1990年代、ワシントン郊外の米国立公文書館「児玉ファイル」を発見して以後、児玉取材を深めてきた(注3)。

1945年11月13日付で、ジェームズ・バーンズ国務長官は、連合国軍最高司令官(SCAP)政治顧問ジョージ・アチソンあてに送った秘密文書で、こう書いている。

「児玉機関の長だった児玉は8月に東京に戻った後、内閣参与になった。……朝日新聞が提供した飛行機で巨額の金を持って東京に戻ったと言われる」

児玉が朝日新聞社機で貴金属や宝石を持ち帰ったという話は、日本の情報通の間では「定説」として語られてきた。児玉機関で働いていた盟友の岩田幸雄は、「終戦の前日に、金の延べ棒やプラチナ、ダイヤモンド、ヒスイなどを朝日新聞の社機に載せて日本に運んだ」と、作家の岩川隆に証言している(注4)。

戦後、児玉が黒幕として、舞台裏で隠然たる影響力を行使した力の源泉は第一に、児玉機関が蓄積した巨額の富だったのだ。

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