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 コロナ禍による重苦しい空気が漂う今では想像もできないほど、世の中が浮かれていた1980年代後半のバブル経済期。夜の街は大勢の男女で賑わい、一万円札をヒラヒラさせてタクシーを止める時代。車で女性を送り迎えする「アッシーくん」、食事をおごる「メッシーくん」が登場し、女性は高学歴・高収入・高身長の「3高」の男性を追い求めた。世代的にバブルを享受した財前直見(55才)はこう語っている。

「当時はブランド品をプレゼントしてくれて、高級車でドライブに、果ては海外旅行に連れて行ってくれるお金持ちがよくモテました。とにかくみんなステータスを見ていたかな(笑い)」(財前)

 やがてバブル景気はピークを越えて、時代は徐々に下り坂に入っていく。1989年1月には、闘病生活を続けられていた昭和天皇崩御され、日本中が沈痛な雰囲気に覆われた。

 時代が昭和から平成にうつって8か月が経過した1989年9月、日本全土を揺るがす大きなニュースがあった。秋篠宮さまと紀子さまの婚約内定である。

 紀子さまは、「丙午」(ひのえうま)である1966年生まれだ。当時はまだ丙午の迷信も根強く、1966年の出生数は少なかった。1966年の日本全国の出生数はで約136万人で、1965年の約182万人、1967年の約194万人と比べて、かなり少ないことがわかる。

 男女雇用機会均等法の施行後、紀子さまは大学を卒業される。バブル経済と丙午の影響による出生数の少なさもあいまって“売り手市場”であったが、学習院大学大学院に進学して、そのまま25才の若さでご結婚された紀子さま。その選択は、同じ年に生まれた丙午の女性には、実は意外なものだったといえる。翻訳家として活躍する池田真紀子さん(54才)はこう言う。

「私は証券会社に総合職で入社したのですが、性に合わず1年で辞めて、コンサル会社に再就職して27才で結婚しました。私の友人は4大卒の女性が多いのですが、いちばん早い結婚でした。周りを見ても、当時大卒女性の結婚はもう少し後になることが多かったと思います」(池田さん)

 1966年生まれの西さんはこう語る。

「山梨まで紀子さまの噂は届いていました。紀子さまのお父さまが念入りに嫁入り教育をされていたという報道を見て、『準備万端だったんだな』と思った記憶があります。同世代の女性が『結婚したら負けだ』と意識するなか、就職せずにご結婚された紀子さまは、同い年としては特殊だったかもしれません」

 1966年生まれで、2003年にベストセラーとなった『負け犬の遠吠え』(講談社)の著者である酒井順子さんは、紀子さまのご結婚を知ったときの驚きをこう記している。

《私には、大学院に進学したとはいえ、就職せずに結婚した紀子さまが特異に見えました。語学も堪能な帰国子女だというのに皇室に入るとはもったいない、とも》(『月刊文藝春秋』2021年7月号)

 家族問題評論家の宮本まき子さんが解説する。

「平等主義の裏に厳然と残る階層社会で“セレブ妻”に憧れ、目標とした女性は一定数はいたでしょう。結婚は社会における自分の階級を上げられる最速のチャンス。照準を合わせた男性に求婚させることは、恋愛というよりは、“狩り”だったはずです」

「納采」は中国の四書五経五経の一つ「礼記」に由来し、「采」には良縁を採るという意味があるのだという。

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幼少時の御称号は礼宮(あやのみや)。「論語」より「博く文を学び、これを約するに礼をもってすれば、またもって畔(そむ)かざるべし」が由来。

#全と個#礼

周囲からどんなに反対されても、自らが選んだ相手との結婚を――。実は、62年も前に眞子さまと同様の選択をした“元女王”がいた。

その名前は久邇通子さん(87)。香淳皇后の兄にあたる久邇宮朝融王の第三王女で、かつては久邇宮通子女王殿下と呼ばれていた。久邇宮家は戦前に11あった宮家の一つで、東京・渋谷の邸宅は2万坪超の敷地を誇った。

しかも、彼女は“もうひとりのミチコさま”と呼ばれていたこともある。上皇陛下とは、いとこ同士で学習院幼稚園の同級生。そんな縁もあって、お妃候補として名前が挙がったことがあったのだ。

だが、通子さんが選んだ相手・Nさんはまったくの“平民”だった。本誌「シリーズ人間」(’79年11月1日号)に登場した当時46歳の通子さん。お相手とのなれそめについて次のように語っている。

《わたくし、学習院短大を卒業したあと、大学の英文科の聴講生になって、週に2回、大学へかよったんです。その教室で知りあった彼と、交際がはじまって……》

学習院大学に通っていたNさんではあったが、父親は平凡なサラリーマン。元皇族との境遇の差は大きかった。通子さんは、父や叔父、叔母にも取り合ってもらえず、結婚の許しが出ないまま月日が過ぎた。家族の中で唯一の味方はすぐ下の妹たった一人だったという。

大学で出会った一般人男性と恋に落ちるも、家族からは結婚に反対され、味方は妹だけ――。佳子さまの応援だけが頼りといういまの眞子さまの境遇とぴったり重なってくるのだ。近現代の皇室に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう語る。

「通子さんは戦後、皇籍を離脱したとはいえ香淳皇后の兄の娘という天皇家に非常に近い存在でした。一方で、そうした特権的な世界に育ったことに戸惑いや窮屈感を覚えていたようです。当時は、結婚は親や周囲の大人たちのすすめで決めることであり、双方の家の経済的地位や格式などのバランスが強く求められていました。そうした中で通子さんは、個人の自我や自立を求めて行動した稀有な女性といえます」

猛反対を受けていた通子さんだが、転機となったのは父の危篤だった。病室に駆けつけると、婚姻届を渡された。やっと結婚の許しが出たのだ。Nさんと出会ってから約6年の月日がたっていた。

新居は東京・飯田橋の2部屋しかないアパート。ほとんど身一つ、家族からの援助も受けずに2人の新婚生活は始まった。父が通子さんと親交があったという旧華族の女性はこう述懐する。

「私の父が通子さんのことを話していたことを覚えています。結婚するときに通子さんは『家名を汚した、二度とこちらに戻ってくるな』『連絡もしない、手紙も書いてこないように』と言われたのだそうです。お金の無心をするなという意味だったのでしょう」

通子さんは結婚前から始めたタイピストの仕事をしながら、なれない炊事や洗濯をする生活を楽しんでいたという。だが、結婚生活は長くは続かなかった。たった4年ほどで2人は別れることになってしまったのだ。通子さん自身は本誌に《憎みあって別れたのではないんです》と、多くを語ってはいない。一方、当時本誌はお相手だったNさんにも話を聞いている。

《わたしはね、久邇家の親族すべてに反対されながら、それを押し切って嫁入りした彼女を、どうしても幸福にしなければ、と思ったんです》

Nさんは懸命に働き、1カ月で174時間の残業をしたこともあったという。2万坪の宮邸には及ばなくてもそれなりの邸宅を建ててあげたい――。Nさんはそんな“野心”を抱いて仕事に打ち込み、超猛烈社員になってしまったそうだ。

だが、通子さんは物質的な豊かさを求めていなかった。《別れましょう。あなたは社会人としては優秀ですけど、夫としては失格です》と告げ、通子さんは家を出た。

あれほど周囲の反対にも負けず、結婚の意志を貫き通したにもかかわらず……。2人の結婚生活、そして10年ほどにわたる純愛は終わりを迎えてしまったのだ。

「小室さんを運命の相手だと疑わない眞子さまですが、一緒に結婚生活を始めてから、意外な価値観の相違に気づくことになるかもしれません。弁護士になるという夢を追い続ける小室さんが、どのくらい家庭を大切にしてくれるのかも、気になるところです」(前出・皇室担当記者)

実は、通子さんの物語には続きがある。32歳のとき、通子さんは職場で出会った6歳年下の男性・Sさんと再婚するのだ。Sさんの実家は牛乳宅配店で庶民的な家庭だった。2人は東京郊外の団地で50年以上も一緒に暮らしている。本誌が訪ねると、通子さんは体調が優れないということだったが、夫のSさんが応対してくれた。夫婦仲は変わらないようだ。

皇室に生まれ育ち、自らの意思で結婚相手を選び、家族に猛反対されても意志を貫き通す――。共通点の多い通子さんと眞子さま。ただ、前出の小田部さんは、大きな違いもあると指摘する。

眞子さまは結婚にあたり、約1億4千万円の一時金を受け取ることが法的に確約されています。一方、通子さんの場合は、いっさいの経済的援助はなく、タイピングなど自活の道を模索していました。通子さんは結婚をゴールとせず、人生を自らの力で切り開いていくことに意義を見いだしていたのでしょう。だからこそ、1度目の結婚がうまくいかなくても幸せをつかみ取れたのではないでしょうか。眞子さまは、小室さんとの結婚生活に挫折したらすべてが終わりとなってしまうのではないかと危惧されます」

 憲法天皇陛下は政治的行為を禁じられているが、そのリスクを十分に知る西村長官による言及だったことも衝撃を大きくしたようだ。

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#天皇家

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第119代光格天皇の孫にあたる中山忠英(父親は光格天皇の第六皇子で、中山家に臣籍降下した中山忠伊)が光格天皇が目指した「四民平等の世、天朝御直の民」を実現し、日本精神を作興するため、1911年に創立された組織。

中山忠英が初代会長に就任した。

幹事長は頭山満、幹事は梅屋庄吉内田良平、花山院家威などが務めた。顧問には大隈重信東郷平八郎渡辺千秋、波多野敬直などがいる。

中村天風は会員の一人である。

その後、大日本皇道立教会は解散され、家督を継いだ中山忠英の三男中山忠徳(ただのり)は神道研究に努めた。中山忠徳を師事していた者の中には、PL教団開祖の御木徳近がいる(御木徳近の「徳」の字は師事していた中山忠徳の字をもらったとされる)。他に山蔭神道宗家の山陰基央などの宗教界における昭和の偉人たちを輩出した。

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藤原北家花山院家の支流、花山院忠宗の子中山忠親を祖とする。羽林家に属しており、中流公家の筆頭格に挙げられた家である。

江戸時代の家禄は200石。江戸時代後期の当主の愛親は、尊号一件の際に、老中松平定信と対決して正親町公明と共に処分された。

愛親の曾孫の忠能明治天皇の生母である典侍中山慶子の父で、幕末から明治維新にかけては政治的にも活躍し、条約勅許に反対したり、和宮親子内親王の降嫁を推進したりした。忠能の七男・忠光は尊王攘夷派の急先鋒で天誅組の首領となり、大和国で決起したが、幕府軍の討伐を受けて壊滅し、忠光自身も長州藩の俗論派の刺客により暗殺された(天誅組の変)。

明治維新後には、幕末からの功績を認められて忠能は侯爵に叙せられ、神祇伯を務めた。忠能の孫の孝麿は東宮侍従長や東宮大夫、宮中顧問官を歴任した。

中山家は藤原一族の男系血統を絶やさずに守り続けている家のひとつ。同じ藤原一族の中で男系血統が途絶えた際には度々養子を輩出するバックアップの面で重要な役割を果たした家で、格上の大炊御門家、さらに摂家の一條家も血統上は元を辿れば中山家に通じることになる。

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1949年、「山蔭家第79世」になる。その後、中山家の養子となり古神道の研究を行う。 1954年に文部大臣認証法人「山蔭神道」を興し、管長となる。

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中山忠伊(ただこれ)卿は光格天皇の第六皇子で、大納言・中山忠頼の猶子となり暫時中山姓を名乗った武生宮長仁親王(雅号:道春)であるとされる。中山忠伊卿は、光格天皇の志を受け継いで討幕の義挙を志し、義弟 中山忠能の七男・中山忠光を主将とする『天誅組』の結成を指示したがその志なかば、幕府の手によって壊滅させられ、その身も幕吏に追われ、この地附近に潜居するも遁るを得ず、この地附近の坂上民部邸にて自刃した。

忠伊卿の嫡男・中山忠英は、明治になって「大日本皇道立教会」を設立した人物である。

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 明治維新の中核的存在だった天忠党ですが、総督であった中山忠伊の子・忠英によって、後継団体の大日本皇道立教会が設立されます。ウィキペディアによると、後の創価学会となる創価教育学会の創設者である牧野常三郎戸田城聖の名があります。また、忠英の子・忠徳の門下には、出口王仁三郎などの名が見えます。

 大日本皇道立教会は、堀川辰吉郎が20才になった1911年に設立されています。この年齢を考えると、大日本皇道立教会は、堀川辰吉郎に仕え守護する政治的秘密結社であると考えられます。

彼らにとっての天皇は当然裏天皇です。

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地球人類第6回目の神仕組みの、

第1世代の指導役が出口王仁三郎
第2世代の指導役が戸田城聖
第4世代の指導役がぼく。

うちのひいおじいさんは、内侍の子。

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