https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

130人が死亡した2015年の仏パリ同時多発攻撃の公判で、パリの裁判所は29日、実行犯グループの唯一の生存者とされるサラ・アブデスラム被告(32)に対し、仮釈放の可能性のない完全な終身刑を言い渡した。

死刑が廃止されているフランスでは最も重い刑に当たり、この判決は過去に4回しか出されていない。

被告と共に起訴された他の19被告も有罪判決を受けた。

攻撃は15年11月13日に発生。コンサートホールのバタクラン劇場やスポーツ競技場、6つのレストランやバーを標的に銃乱射や自爆で攻撃を受けた。その後、過激派組織「イスラム国(IS)」が犯行声明を出した。

2015年11月に起きたパリ同時テロ事件ではレストランやコンサートホールが過激派組織IS=イスラミックステートのメンバーに襲撃されて130人が犠牲になり、実行犯の唯一の生存者であるサラ・アブデスラム被告(32)など20人がテロやテロを共謀した罪に問われています。

この事件の裁判が29日、パリの裁判所で行われ、裁判長はアブデスラム被告が爆発物の原料や車の調達を行い、メンバーをテロの実行現場まで送り届けるなど事前の計画から実行にいたるまで重要な役割を果たしたと指摘しました。

そのうえでアブデスラム被告に対し、検察側の求刑通り仮釈放などを原則として認めない無期の禁錮刑を言い渡しました。これは死刑を廃止したフランスで最も重い刑となります。

同時テロ事件をめぐっては当時のオランド政権が非常事態宣言を出してテロ対策を大幅に強化するきっかけになったほか、その後の選挙では、反イスラムや移民排斥を訴える極右政党が急速に支持を伸ばすなど社会に大きな影響を与えました。

事件で家族を失った遺族やけがをした被害者は、10か月に及んだ裁判や判決についてそれぞれの思いを話しました。

事件で当時23歳の息子を亡くし、裁判で証言もした男性は「裁判は私にとって苦しくも必要な行程でした。きょうの判決は完全に私が期待したものだったと思います」と話していました。

また事件で銃撃を受け、足に大けがをした女性は「判決には満足しています。これで終わりです。少なくともやっと事件のことを忘れられそうです。私が望んでいたことです」と涙ぐみながら話していました。

フランスで2015年11月に起きた同時テロ事件では週末の夜、多くの人でにぎわうコンサートホールなど8か所が過激派組織ISのメンバーに襲撃されました。

事件はパリ郊外のサッカースタジアム近くで起きた自爆テロで始まり、その後パリの中心部にあるバーやレストランなどに車で乗りつけた男たちが次々と銃を乱射しました。

最も被害が大きかったのはパリ市内のコンサートホールで、およそ1500人がロックバンドの演奏を楽しんでいたところ男3人が銃を乱射したり自爆したりして合わせて90人が死亡、多数のけが人が出ました。

一連の事件の犠牲者は130人にのぼります。

事件を受けて当時のオランド政権は全土に非常事態宣言を出して国境管理や過激派の取締りなどのテロ対策を強化したほか、ヨーロッパ各国も警戒を強めました。

またフランスではその後の選挙で反イスラムや移民排斥を訴える極右政党が急速に支持を伸ばすことにもつながり、社会に大きな影響を与えました。

事件の首謀者であるモロッコ系ベルギー人の男を含む実行犯の9人は自爆や警察との銃撃戦で死亡しましたが、実行犯グループの唯一の生存者であるモロッコ系フランス人のサラ・アブデスラム被告は事件の4か月後に逮捕されました。

アブデスラム被告は兄が実行犯の1人で首謀者の男とも関係が深く、裁判が始まったばかりの去年9月には職業を「ISの戦闘員だ」と述べたほか、テロを行った当時フランス軍がシリアでISに対して行っていた空爆を非難し「最初に攻撃したのはフランスだ」などと挑発的な言動を繰り返していました。

しかしことし4月には「すべての犠牲者におわびを申し上げたい」と述べ初めて謝罪したほか、事件の時には自分もパリのカフェで自爆する計画だったものの、店で楽しむ人たちを見て思いとどまったなどと述べていました。

これに対して検察側は今月10日の論告求刑で「事件の翌日にはほかのテロリストと合流して次の攻撃のチャンスをねらっていた」と被告の証言の矛盾を指摘したうえで「いまだに過激な思想に忠実だ」として仮釈放などを原則として認めない無期の禁錮刑を求めました。

去年9月に始まった裁判では、多くの被害者や遺族が傍聴したり証言したりしてきました。

このうちパリ市内に住むフレッド・ドウィルドさん(56)は、90人が犠牲になったコンサートホールでテロに遭遇しました。銃声や爆発音が響く中、銃弾に倒れた人たちの中にまぎれることで助かりました。

けがはありませんでしたが、事件のフラッシュバックに悩まされ、グラフィックデザイナーとしての仕事を辞めざるをえませんでした。

ドウィルドさんを最も苦しめてきたのは、隣にいた若者が亡くなる中で50代の自分が助かったという「罪悪感」です。

ドウィルドさんは事件をイメージした絵を描き続けていて、このうち罪悪感をテーマにした作品では折り重なる人たちの間から手を伸ばす自分自身がモノクロで描かれています。

ドウィルドさんは「事件との闘いはつらいことで、その苦悩を取り除くために死にたいと思いました」と話し、事件から7年たつ今も罪悪感がドウィルドさんに重くのしかかっているといいます。

ドウィルドさんはことし5月、初めて事件の裁判を傍聴しました。

事件の記憶が再び鮮明によみがえることを恐れていましたが、自分を苦しめ続ける罪悪感から解放される日は来るのか、そのヒントを探したいと判決の内容も法廷で傍聴するといいます。

ドウィルドさんは「犯人が残した傷が私の人生にどう影響したか知りたいです。判決は罪を戒めるものであることが重要です」と話していました。

d1021.hatenadiary.jp

#EU