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トヨタ自動車を世界有数の自動車メーカーに成長させた名誉会長の豊田章一郎氏が14日夕方、心不全のため亡くなりました。97歳でした。

豊田章一郎氏は、トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎氏の長男で、昭和27年に会社に入り、昭和56年に当時の「トヨタ自動車販売」の社長に就任しました。

翌年には、戦後、経営危機により分離されていた製造部門と販売部門のいわゆる「工販合併」を実現しました。

その後は、合併により誕生した「トヨタ自動車」の社長として、トヨタ単独では初めてとなるアメリカのケンタッキー州に工場建設を決めたほか、カナダやイギリスなどでも現地生産を進め、世界有数の自動車メーカーへと発展させました。

平成4年にトヨタの会長に就任して以降は財界活動にも力を注ぎ、平成6年から4年間、経団連の会長を務めました。

また、平成17年に愛知県で開かれた「愛・地球博」の運営にあたる博覧会協会の会長を務めました。

平成11年にはトヨタの名誉会長に就任し、経営の一線から退きましたが、平成21年にトヨタの社長に就任した長男の章男氏を支えました。

そして、平成19年の秋の叙勲では桐花大綬章を受章しました。

また、人材育成や教育にも力を入れ、トヨタJR東海など企業が設立にかかわった全寮制の中高一貫校海陽学園」では、初代の理事長を務めました。

豊田章一郎氏は14日夕方、心不全のため亡くなりました。97歳でした。

トヨタ自動車では後日、お別れの会を開く予定だということです。

豊田章一郎氏がトヨタ自動車を率いた時代は、日米の貿易摩擦が激しさを増していた時期でした。

1970年代以降、日本からアメリカへの自動車の輸出が急増。

ジャパン・バッシング」と呼ばれる日本への厳しい批判が巻き起こり、日本車などをたたき壊すパフォーマンスも行われました。

こうした中、社長時代の1984年(昭和59年)には、雇用の拡大で沈静化を図ろうと、アメリカ・カリフォルニア州にGMゼネラルモーターズと合弁工場を設立しました。

この工場では北米向けに小型車やピックアップトラックを生産し、アメリカ各地に生産拠点を持つトヨタにとって、アメリカ進出の足がかりとなりました。

さらにアメリカのケンタッキー州トヨタ単独では初めてとなる工場建設を決めたほか、カナダやイギリスでの現地生産も進めました。

豊田氏が推し進めたグローバル化は、トヨタを世界有数の自動車メーカーへと発展させただけでなく、日本の自動車産業にとっても日米の貿易摩擦の緩和につながる結果になりました。

豊田章一郎氏は、トヨタ自動車の社長として会社を世界有数の自動車メーカーに発展させました。

豊田氏が会社を率いていた当時は、激しさを増す日米貿易摩擦への対応もあって、日本の自動車メーカーは海外進出を加速させていました。

円高による国内産業の空洞化が懸念されていた1986年のNHKのインタビューで、豊田氏は、「ものづくりには日々の改善や研究の積み重ねが必要で、主力を海外だけに向けると、日本国内の技術が遅れることになる。そうならないよう『二兎を追っても二兎を取る』という考えでやっていきたい」と述べ、日本のものづくりの国際競争力を維持するためには、海外だけでなく国内に拠点を残すべきだと話していました。

また、日本の自動車メーカーが燃費の向上で競争力を高め、販売を拡大していることについて豊田氏は、「客に満足してもらうのは当然だが、長期的に見てエネルギーを使わない、燃料消費の少ない安全で経済的な車を目指す技術開発がこれからの日本の自動車産業に重要だ」と述べ、そのころから環境に配慮したクルマの開発の重要性を強調していました。

豊田氏が亡くなったことを受けて、愛知県の大村知事は記者会見し、「愛知県の名誉県民である豊田章一郎さまの訃報に接し、誠に痛恨の極みです」と述べました。

そのうえで、「戦後一貫してトヨタ自動車トヨタグループの総帥としてご活躍し、世界一の自動車メーカーに育てられた。日本経済界のために経団連会長もおつとめになり、地域のために愛知万博の会長としても成功に導いていただいた。また、私の初当選から一貫して政治活動などでご指導ご鞭撻いただき、思いがつきない。謹んで哀悼の意を表すとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます」と述べました。

#アウトドア#交通