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天皇皇后両陛下の長女の愛子さまは、ことし11月に初めての外国公式訪問として東南アジアのラオスを訪問されることになりました。

宮内庁は23日、愛子さまが国際親善のため、ことし11月にラオスを公式訪問されることを検討していると発表しました。

愛子さまの外国公式訪問は初めてです。

1955年に日本とラオスが外交関係を結んでから70周年にあたることからラオス政府の招待を受けて訪問し、訪問期間中、トンルン国家主席を表敬訪問するほか、外交関係樹立70周年の記念式典などに臨まれる方向で調整を進めるということです。

去年、大学を卒業した愛子さまは、日本赤十字社の嘱託職員として働きながら公的な活動の幅を徐々に広げていて、ことし3月には国賓を歓迎する宮中晩さん会に初めて臨んだほか、今月3日には初めて式典でおことばを述べ、18日と19日には初めての被災地訪問として能登半島地震で被災した地域を訪ねられていました。

ラオスには、平成24年に当時皇太子だった天皇陛下が、平成11年に秋篠宮ご夫妻が、いずれも国際親善のため公式訪問されています。
内親王の初の外国公式訪問は
愛子さまは、大学を卒業し社会人になって2年目で初めての外国公式訪問に臨まれることになりました。

天皇の子や孫にあたる「内親王」と呼ばれる女性皇族は、平成の時代以降、大学卒業後数年のうちに初めての外国公式訪問に臨まれてきました。

内親王の立場で歴史上初めて外国を公式訪問したのは、上皇ご夫妻の長女の黒田清子さんで、大学卒業から3年後の平成7年、26歳の時に、修好通商条約が結ばれてから100周年の記念式典に出席するためブラジルを訪問しました。

秋篠宮ご夫妻の長女の小室眞子さんの初めての外国公式訪問は、大学卒業翌年の平成27年、24歳の時で、日本との外交関係樹立80周年を迎えた中米のエルサルバドルホンジュラスを訪ねました。

ご夫妻の次女の佳子さまの初めての外国公式訪問も24歳の時で、令和元年に大学を卒業した佳子さまは、この年の秋に日本との外交関係樹立150周年を迎えるオーストリアハンガリーを訪ねられました。

今から80年前、太平洋戦争末期の日本列島は、連日のようにアメリカ軍による空襲にさらされていました。

皇居も例外ではなく、昭和20年3月の東京大空襲で一部の施設が被害を受け、5月の「山の手空襲」では、日本を代表する重要な建物であり天皇の住まいでもあった宮殿が全焼しました。

この出来事は、戦後の皇室のあり方にどのような影響を及ぼしたのか。古い記録や証言をたどりながら探ります。

(社会部記者 橋本佳名美・島崎眞碩)

大日本帝国の象徴” 明治宮殿
明治宮殿「御車寄」
皇居・宮殿がある旧江戸城西の丸には、かつて木造の宮殿が建っていました。

明治21年に完成し、「明治宮殿」と呼ばれているこの建物群は、天皇が執務し公的な行事が行われる「表宮殿」と、天皇皇后の私的な生活空間の「奥宮殿」に分かれていました。
手前が表宮殿 その奥が奥宮殿 右の洋風建築は宮内省
一部を除き木造平屋建てで、面積は現在の宮殿の1.7倍ほど。建設には、当時の国家予算のおよそ5%にあたる資金が投じられたといいます。

外観は伝統的な和風建築、室内はヨーロッパから輸入した家具やシャンデリア、暖炉が配置されるという和洋折衷の様式となっていて、近代国家として求められた大規模な式典や儀礼などを行う空間として計画された表宮殿には、西洋化が進んだ鹿鳴館時代の特色を表す壮麗な室内装飾が施されていました。
正殿
深紅の織物を張ったバロック式の玉座が置かれた「正殿」。
憲法発布式之図
ここでは、明治22年大日本帝国憲法発布式をはじめ数々の重要儀式が行われました。
千種の間
宮殿内で最も大きな建物だった「豊明殿」では外国からの賓客を歓迎する宮中晩さん会などが開かれ、最も装飾美に満たされた空間だったという「千種の間」は饗宴のあとの歓談会場などとして使われていました。

しかし、明治、大正、昭和の3代の天皇が住み、数々の儀式や国の行事が執り行われたこの宮殿は、完成から57年後の昭和20年5月26日に失われました。
都心部を壊滅させた山の手空襲
東京では、下町が壊滅的な被害を受けおよそ10万人が犠牲になった3月10日の東京大空襲のあともアメリカ軍による空襲が続きました。

このうち、焼けずに残っていた都心部などを標的に4月から5月にかけて繰り返されあわせて数千人が死亡した空襲は、「山の手空襲」と呼ばれています。
焼け野原となった霞が関・国会周辺
中でも、5月25日深夜に始まった空襲は、銀座、赤坂、青山、それに霞が関の官庁街など広い範囲が焼け野原となり3000人余りが犠牲になるなど最も被害が大きく、明治宮殿もこの時に炎上しました。
知られざる 皇居の空襲被害
宮内庁が編さんした公式記録集「昭和天皇実録」には、次のように記されています。
「25日午後10時23分、空襲警報発令」
「米軍爆撃機が帝都に大挙来襲して爆弾並びに焼夷弾を投下し、甚大な被害をもたらす。午前1時頃、警視庁方面からの飛び火により正殿にも出火あり」
燃えやすい木造の宮殿に燃え移ったのは、日付が変わって5月26日になってから。

当時侍従長を務めていた藤田尚徳は、著書「侍従長の回想」で、宮殿炎上の知らせを聞いた昭和天皇が「あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とかして消しとめたいものだ」と語ったとしています。
昭和天皇
天皇の護衛などを担う陸軍「近衛師団」や現在の皇宮警察本部にあたる宮内省皇宮警察部、それに、現在の東京消防庁にあたる警視庁消防部から皇居に派遣されていた特別消防隊が消火にあたりました。
平塚基一さん(元陸軍・近衛第1師団)
元近衛兵の平塚基一さんは、生前NHKの取材に応じ、人員も機材も不足する厳しい状況のなか命がけで行った宮殿の消火活動について語っていました。
平塚基一さん
「上官から『皇居が延焼しているのですぐ消火せよ』と命じられた。それまでの空襲で都内の消火栓がやられていて水が上がってこないので、我々がバケツリレーをやり、そのあと警視庁の消防隊がポンプ車で一斉放水した。その水がお湯になって戻ってくるくらいの勢いで燃えていたので、どうしても消せなかった。日付が変わり26日の午前1時ごろだと思うが、今度は宮殿内から物品を搬出するという命令があり、私たち兵隊も中に入った。最初に立派な机を3人くらいで運び出し、次にじゅうたんを10人くらいで巻いて運び出した。宮殿の屋根は銅板ぶきなので青光りしながら不気味に燃えていた。柱はすべてひのきなのですごい勢いで燃えていた。手前の物から運び出したので3回目は奥の方に入り手箱のようなものを持ったが、これを持っていたら焼け死ぬと直感的に思い、本当は持ってこなければならない箱をそこに置いて、四つんばいになって外に出た。火はすごい勢いだったので、それきりもう宮殿の中には入らなかった」
NHKアーカイブスには、同じく当時「近衛師団」に所属していた和久田正男さんのこんな証言も残っています。
和久田正男さん(元陸軍・近衛第1師団)
和久田正男さん
「皇居に駆けつけて宮殿の前に行くと、荘厳な御車寄が焼け落ちる寸前だった。すぐに総ひのき造りの立派な宮殿の中に入り、昭和天皇の調度品や香淳皇后の調度品を庭に運び出した。自分は皇后さまの御針箱や歌会始の短冊などを運び出したが、『あぁ、これで皇居の中が戦場になってしまった』と思った。全体の戦況は知るよしもないが、ここまでやられてくると戦争に勝てるとは思わなかった」
昭和天皇香淳皇后は避難していて無事でしたが、奮闘むなしく、火が燃え移ってからおよそ4時間後の午前5時ごろ、明治宮殿はごく一部を残して灰燼に帰し、明治天皇ゆかりの品など貴重な美術工芸品の多くも失われました。
明治宮殿の焼け跡(昭和20年)
この空襲では、皇居だけでなく、現在の赤坂御用地にあった大正天皇の后で昭和天皇の母親の貞明皇后の住まい「大宮御所」や、当時11歳の皇太子で疎開中だった上皇さまのお住まいの「東宮仮御所」、それに、同じく疎開中だった弟の常陸宮さま(当時9歳)のお住まいの「青山御殿」が全焼したほか、近隣にあった皇族の邸宅の多くが被害を受けました。

昭和天皇実録などによると、皇居・宮殿や皇室関連施設の消火活動などで、「近衛師団」の将兵19人が戦死したほか、宮内省皇宮警察部の3人と警視庁消防部の18人も殉職し、犠牲者はあわせて40人にのぼりました。
あの日のことを 後世に
皇居を守るため十分な警備態勢がとられていたはずなのに、なぜ宮殿は全焼し、多くの殉職者を出したのか。疑問に思い、戦後あまり語られることがなかった宮殿の消火活動の実態を1冊の本にまとめた人がいます。
昭和31年に東京消防庁に入った、元消防士の中澤昭さん(87)。

残された資料や先輩消防士から聞いた体験談をもとに、退職後に執筆しました。
中澤昭さん
「消防関係者にかん口令が敷かれ、戦争責任を逃れるため極秘文書だった空襲関係資料が焼却処分されたうえ、占領軍による言論統制もあって、空襲の実態は長い間封印されていたので、戦争や空襲があったことは知っていても、皇居・宮殿が全焼し多くの人が殉職したことを知る人は少ない。自分も、宮殿が焼けたことを知ったのは消防に入ってからだった。犠牲者の悲しみや苦しみを歴史の1つとして残しておきたい、皇居炎上のことをどうしても記録に残したいと思って書いた。皇居を守るために命を懸けた消防隊員がいたということを、1人でも多く知って欲しい」
戦後も続いた“防空壕暮らし”
昭和天皇は、宮殿が焼失したことから、昭和18年以降事実上の住まいとしていた「御文庫」での仮暮らしを続けることになりました。
御文庫前の昭和天皇とご一家(昭和18年10月)
御文庫は、戦局の悪化に伴って皇居の吹上御苑に造られた、地上1階、地下2階の鉄筋コンクリート造りの防空施設。

爆弾にも耐えられるよう屋根の部分が特に頑丈に造られていましたが、湿気がひどく雨漏りもするなど、長く住むには不向き。しかし、国民の生活や住宅状況を考慮して多額の予算を要する皇居再建が先送りされ続けたことなどから、昭和天皇香淳皇后とともに、建物を改修しつつ、終戦後も16年余りにわたってここで暮らし続けました。
「仮宮殿」が歴史的場面の舞台に
焼失した宮殿に代わって、当時の宮内省(のちの宮内府・宮内庁)庁舎が、天皇の執務や儀式の場などとしての役割を果たすようになります。
庁舎「表御座所」で憲法の改正を裁可(昭和21年)
昭和天皇終戦を告げる「玉音放送」のための録音に臨んだのも、戦後、自らを「象徴」とする新たな憲法を裁可したのも、内廷庁舎2階の1室でした。

サンフランシスコ平和条約が発効し日本が国際社会に復帰すると、外国からの賓客を迎える場所が必要となり、昭和27年には、戦災を免れた宮内庁庁舎の3階が仮宮殿として改装されました。

手狭な事務棟に、天皇の「表御座所」や国事行為に伴う主要な儀式を行う部屋、国賓などとの謁見所などが整えられたのです。
仮宮殿「謁見所」
かつて明治宮殿があった場所に新たな宮殿が建てられ、利用が始まったのは、高度経済成長期の昭和44年。

それまでの間、上皇さまの成年式と立太子の礼や、戦後初の国賓エチオピア皇帝を歓迎する宮中晩さん会など、本来は宮殿で執り行われる儀式や行事が、宮内庁庁舎で行われました。
仮宮殿で行われた上皇さまの立太子の礼(昭和27年)
上皇ご夫妻の結婚式が行われたのも、仮宮殿となっていた宮内庁庁舎でした。
式を終え庁舎正面玄関を出る上皇ご夫妻(昭和34年)
戦後国民に開かれていった皇居
大日本帝国憲法の時代、統治権を総覧する君主、そして、陸海軍を率いる最高司令官とされた天皇が住む皇居は、一時期を除き、一般の人の立ち入りが厳しく制限されていました。

しかし、戦後間もない昭和20年12月、手つかずのまま放置されていた明治宮殿の焼け跡整理をきっかけに、一般のボランティアが皇居内で清掃作業などにあたる「勤労奉仕」が始まりました。

昭和天皇実録には、「人間宣言」を行う前の昭和天皇が宮殿の焼け跡を訪れ、整理作業にあたるボランティアの人たちに慰労のことばをかけたと記され、香淳皇后勤労奉仕団を慰労する姿を記録した写真も残っています。
宮殿跡で奉仕団を慰労する香淳皇后(昭和21年)
日本国憲法施行後の昭和23年1月には、現在の一般参賀にあたる行事が始まりました。

新年と天皇誕生日一般参賀の定例化によって、長く「畏れ多い存在」だった天皇や皇室が一般の人たちと直接対面しふれあう形が定着していき、さらに多くの人が皇居内に入るようになっていきます。
屋上で手を振り参賀者に応える昭和天皇(昭和24年)
象徴天皇制を研究している名古屋大学の河西秀哉准教授は、山の手空襲による明治宮殿焼失がなければ、こうした皇室と国民のふれあいの形や関係性は今とは違ったものになっていたかもしれないと指摘します。
河西秀哉 名古屋大学准教授
「皇居は、戦前のある時期や戦争中には聖地化され、『宮城遙拝(きゅうじょうようはい)』という言葉があるように、国民にとっては皇居前広場から拝むことしかできない存在だった。明治宮殿には天皇の住まいというプライベート空間も併設されていたので、戦後も残っていれば、その近くに一般の国民を入れたり、皇居を開かれたものにしたりしていくのは、難しかっただろう。また、皇居も宮殿も焼けてしまい防空壕暮らしで不便をしているというのは、天皇も国民と同じく戦争の被害者なんだというアピールにもなり、天皇制批判や戦争責任の回避に役立った面もある」
明治宮殿の焼け跡でサツマイモ作り(昭和21年)
食糧不足の時代に畑となっていた明治宮殿の跡には、やがて芝生が植えられ、昭和29年には宮殿跡の広場や宮内庁庁舎の周りなどを見学する「一般参観」も始まります。
昭和30年の皇居(左は明治宮殿跡)
この頃から、一般参賀会場の広場には、天皇や皇族が訪れた人たちに応えるための「お立ち台」が設けられるようになりました。
新年一般参賀昭和36年
こうした流れは、戦後20年余りたって建設された「新宮殿」にも受け継がれていきます。

私たちが今ニュースなどで目にしている皇居・宮殿は、「国民に親しまれるものであること」をテーマに計画され、明治宮殿にはなかった皇室の方々が立てる長いベランダと人々が集まるための広い前庭が設けられました。

河西秀哉 名古屋大学准教授

「明治宮殿には一般参賀を意識した現在の宮殿のような空間はなかったので、もしそのまま残っていれば、一般参賀の形は皇居前広場で行うなど現在とは異なったものになっていたはずだ。大日本帝国の権威の象徴だった明治宮殿が空襲で焼け、皇居前広場から拝むことしかできなかった皇居が戦後少しずつ開かれていったことは、まさに象徴天皇制のあり方の変化を表している。象徴天皇制というのは、基本的には天皇や皇族が考え模索しながらやっていくもので、国民に寄り添うことを非常に重要視し、どんどん国民の中に入って、同じ目線で取り組むようになっていった。皇居の開放はそれを体現する象徴的な場面の1つであり、皇居という場所自体が 国民と象徴天皇の関係性を目で見えるものにする役割を果たすようになっていったと思う」

戦災による宮殿焼失を経て、戦後80年で少しずつ開かれてきた皇居の歴史。

これからどのように変化していくのか、取材を続けていきます。

(5月25日「ニュース7」などで放送予定)

d1021.hatenadiary.jp
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「……まさに万世の為に太平を開くを念としたまい、天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ御志の天皇陛下におかせられましては、戦後日本の隆々たる復興繁栄と、都市のきそい立つ壮麗な建築の間にあっても、更に宮殿の設営に御心を御寄せあそばされず、有司および国民ひとしく恐懼しておったのであります……。
 日本精神の伝統に立ち、現代技術の粋を総合して、今日このように格調高い、みごとな輪奐の美を発揮した新宮殿が完成されました。今後国家内外にわたる、宮中の諸行事が、また新たな感激と印象とをもって厳粛に行われることを拝察し、まことに欣幸の至りであります。衷心より慶祝申し上げます」


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