仕事へのモチベーションが上がらない。やりがいをどう見つけるか
【稲盛】モチベーションが上がる仕事に就けたら、人間は幸せですが、大半の人はそうではありません。初めから高いモチベーションを保てるような仕事はあるわけがないといってもいいでしょう。結局はモチベーションが高まるよう、自分で努力をしなければならないのです。
その点、今の若い人は、ある意味、かわいそうな気もします。私が鹿児島大学工学部を卒業した1955年のころは、朝鮮戦争の特需が一巡して雇用情勢が厳しくなっていました。地方大学出身者は都会の一流企業に入りたくてもままならず、どこも相手にしてくれませんでした。
結局、大学の先生の紹介で、京都の松風工業という高圧線用碍子の製造会社にやっと就職するのですが、実は経営難が続いていたことを入ってから知ります。給料も遅配で、非常に厳しい環境でした。
新入社員は次々辞め、秋には2人になってしまいます。2人で相談して転職を決め、手続きに必要な戸籍謄本を鹿児島の実家から取り寄せようとしたのに、いつまで経っても届かない。「入社して半年も辛抱できない人間は情けない」と、兄が握り潰していたのです。
転職もかなわない。これでかえって気持ちが吹っ切れました。ここで生きていかざるをえないなら、これ以上、不平不満をいっても仕方ない。逆境に耐える努力をしよう。考えを180度切り替えて仕事に没頭する決意をしました。厳しい環境が否応なく私を変えてくれ、生きる道を教えてくれたのです。
一方、今の若い人は、私のころと比べてはるかに恵まれていますが、その分、自分を変えられるような厳しい環境を自ら求めなければなりません。ただ、私がそうだったように、あえて厳しい環境を見出していけば、必ず成長できるはずです。
【鈴木】実は私も、流通の仕事がしたくて、この業界に入ったわけではありません。
私は中央大学経済学部に通っていたころ、一時、全学自治会の書記長を務め、学生運動にかかわったため、いわゆるブラックリスト(要注意人物リスト)に載せられ、通常の民間企業への就職はほとんど道が閉ざされてしまいました。そこで、つてをたどって、出版取次大手のトーハンに何とか入社します。
20代の後半、私はトーハンの広報課で「新刊ニュース」という広報誌の編集を担当し、毎日、何十冊もの新刊に目を通しては書評にまとめる仕事に明け暮れました。部数は5000部です。増やしたくても、上司はその気がありません。
こんなに苦労してつくっているんだから、もっと多くの人に読んでもらいたい。そう思って、読書家も息抜きができるような軽めの読み物を増やし、判型も変え、無料配布を有料にする改革案を提出しました。上司に反対されたものの、社長の目にとまって、何とか実現にこぎ着け、部数を13万部へと伸ばします。
出版取次業の強みで版元を通せば、どんな大作家、有名人にも登場願えました。ほとんどマスメディアに出なかった晩年の文豪、谷崎潤一郎さんにも女優の淡路恵子さんとの対談を引き受けていただきました。
ところが、次第に自分の生き方に対して悶々とした思いがわき上がります。著名人に会えるのは、トーハンがバックにあるからで、実力でも何でもない。自分の小ささや物足りなさを感じるようになりました。
そんなとき、マスコミ関係者と一緒にテレビ番組制作の独立プロダクションをつくる話が持ち上がります。娯楽の主役はテレビに移りつつありました。「これはやるべき価値がある」。そのスポンサー探しで訪ねたのが、友人が出入りしていたイトーヨーカ堂でした。「うちへ来てやってはどうか」と経営幹部から誘われ、30歳で転職を決意します。
【鈴木】私はそれまでヨーカ堂の社名も、総合スーパーの業種も知らないほど流通業に興味はありませんでした。友人が百貨店に就職したときも、「デパートのどこが面白いんだ」などと減らず口をたたいたくらいです。しかも、トーハンは大企業、ヨーカ堂は店舗数がまだ5店舗の中小企業です。トーハンの上司からは強く引き留められ、親兄弟も猛反対です。今から思えば、それだけ、仕事のやりがいを求めていたのでしょう。
ところが、話は急展開します。入社後に経営幹部に話を切り出すと、「いずれ将来の話だ」という。初めからその気はなく、単に人材がほしかっただけで、転職は失敗でした。
【稲盛】それは不思議な運命ですね。
【鈴木】ただ、「話が違ったから辞めます」とは意地でもいえませんでした。すべて自分の責任です。だからこそ、発展途上にあったヨーカ堂で、自分から次々改革を仕掛け、挑戦していきました。
仕事は販促、人事、広報と管理業務を何でも引き受けました。高卒者の採用で地方での知名度のなさをカバーするため、スライド機材を抱え、画像で仕事を紹介するビジュアル化の草分け的な試みをしたり、懸命に取り組みました。
モチベーションが上がるか上がらないかは、やはり自分の意識の問題だと思います。
【稲盛】モチベーションを持てるよう努力するとき、自分の就いた仕事について、努めて「好き」になるのが一番いい方法ではないでしょうか。
現実には、世の中で自分の好きなことを仕事にすることができる人は少ないでしょう。だからこそ、自分から仕事を好きになる。好きになれば、自ずと集中できるので、上達も早く、やりがいが生まれます。
私がよく使う言葉に「思念が業(ごう)をつくる」という仏教の教えがあります。業とはカルマともいい、現象を生み出す原因となるものです。人生は、心の中で強く思ったことが原因となり、その結果が現実となって表れる。だから考える内容が大切で、その思念に悪いものを混ぜてはいけないと説いています。
今の仕事が「嫌だ嫌だ」と思っていたら、それが原因となり、結果としてモチベーションなど上がるわけがありません。成績も悪くなり、いい評価などもらえないでしょう。人生は強く思ったことが現象となって表れる。だから、今の仕事を好きになることが大切だと思うのです。
その際、仕事の取り組み方は、鈴木さんみたいに、「ど」がつくくらい、「ど真剣に」打ち込むべきです。一度きりの人生を、ど真剣に生き抜く真摯な姿勢があれば、どんな仕事も好きになるでしょう。そうすれば、モチベーションは自ずと上がっていくはずです。
稲盛和夫
京セラ名誉会長。1932年、鹿児島県生まれ。55年京都の碍子メーカーである松風工業に就職し、ファインセラミックの研究に邁進。59年、27歳のときに、京都セラミック株式会社(現・京セラ)を設立。通信自由化を受けて、84年に日本初の異業種参入電気通信事業者となる第二電電企画(現・KDDI)を設立。2010年には民事再生法の適用となった日本航空(JAL)の会長に就任。無給で再建に尽力し、12年に再上場を果たす。
鈴木敏文
セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問、イトーヨーカ堂会長。1932年、長野県生まれ。中央大学経済学部卒業後、東京出版販売(現・トーハン)入社。63年、まだ5店舗の中小企業であったヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に転職。73年セブン−イレブン・ジャパンを創設して日本一の小売業に育てる。2001年、日本初の異業種参入銀行であるアイワイバンク銀行(現・セブン銀行)設立。05年セブン&アイ・ホールディングス設立。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20161003#1475490913
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160926#1474886938