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彼らの多くが、全身全霊をかけ、裁判に向かう気持ちになれないのは、裁判所自身の問題に起因している。一皮むけば、さまざまな矛盾と欺瞞を隠し持っている組織体質が、とりわけ若手や中堅裁判官の気概を削いでいたのである。


ある中堅裁判官は、弁明めいた口調でこう語った。


「裁判長の中には、口では裁判は大事と言いながら、本音では必ずしもそう思ってない人がいる。しかも、判決内容より、要領よく事件処理することに一生懸命で、そういう人のほうが、恵まれた道を歩いている。


こういう現実を目の当たりにしていると、来た仕事、来た仕事に全力投球する気にはなれないものです」


また、別の若手裁判官は、「あまりに忙しく、よほど工夫しなければ判決起案に時間を割く余裕がない」として、こう零した。


「裁判所では、まずは、合議体で主任を務めさせられ、法廷期日のたびに、合議メモを作成し、裁判長と右陪席に、これまでの審理経過や今後の見通し、現時点での暫定的心証などを説明しなければならない。過不足のないメモを作る準備に、自分だけが利用するメモ作り以上に時間がかかる」


同若手裁判官の話が続く。


「そのうえ、捜査機関からの令状請求は、24時間いつでも来ますから、当番であれば深夜でも叩き起こされる。


加えて、裁判長や所長からは種々雑多な仕事を言いつけられ、若手裁判官の集まりである判事補会の勉強会にもでなければならない。まさに息つく暇のない毎日です」


だから、休める時には、息を抜かなければやっていけない。なるべく仕事のことを忘れ、自由に過ごすように努め、週末には友人と繁華街などに繰り出し、朝まで飲み明かすこともあるという。

1970年にはじまる「ブルーパージ」に端を発した司法研修所での「骨抜き教育」と、裁判官への統制強化が、複雑に絡み合い、静かに、そして徐々に裁判官の意識を変容させてきたのである。


裁判所の歴史のなかで、消えない汚点とされる「ブルーパージ」とは、リベラルな裁判官の集まりであった青年法律家協会裁判官部会に加盟していた裁判官への、徹底した差別人事である。


東西冷戦の時代、共産主義者を社会から排除した「レッドパージ」になぞらえての名称だ。


元大阪高裁裁判長で、司法研修所教官もつとめた石松竹雄は、「ブルーパージ」を境にして、司法研修所等での裁判官教育が大きく変わったと、自著『気骨』のなかで述べている。


「裁判官志望の司法修習生及び判事補に対し、徹底的な骨抜き教育が行なわれたことである。


具体的に言えば、わからないときは、先輩裁判官=裁判長の言う通りにしておけ、判例があれば何も考えずにそれに従っておけ、検察官の主張に従っておけば間違いはない、等々というような教育が公然と行なわれていた」

もともと正解志向が強く、順調に受験競争に勝ち抜いてきた「優等生」たちは、時間とエネルギーをかけて判決を書いても、最高裁によって偏向していると受け取られると、怪我をしかねない。


それより過去の判例機械的に受け入れ、それに則って判決を起案しておけば無難なうえ、裁判所での名誉ある地位と栄光を得やすいことを知っているからだ。


最高裁事務総局に勤務経験のある元裁判官は、ため息交じりにこう語った。


「裁判は、恐ろしいほど人の運命を左右する大変な仕事です。ところが、裁判を重大と感じる度合いが薄れ、判決の理論構成も、水準が落ちている。もっと時間をかけ、深みのあるものに仕上げてもらいたい、と思うことがしばしばです」


本来、判決は、裁判官が「記録をよく読み、よく考え、証拠に照らして的確な判断を下さなければ書けない」ものだ。それを「普通の事務」のように処理することを可能にしているのが、判例検索ソフトである。


最高裁は、「判例秘書」や「知財高裁用 判例秘書」など各種ソフトを、約7500万円かけて購入している(2016年度予算額)。


このうち、「判例秘書」は、ほとんどの裁判官が活用していて、自身の抱えている訴訟と類似する過去の事件で、どのような判例があるかを検索しては、判決起案の参考にしている。


「参考にするだけならまだしも、なかには似た事案の判例を見つけると、やっとこれで判決が書けると顔をほころばせ、そのままコピペしている裁判官もいる」


こう語るのは、首都圏の大規模裁判所に勤務するベテラン裁判官だ。


「そういう嘆かわしい実態を、最高裁も分かっているはずです。なのに、『判例秘書』の運営会社から、情報提供の要請があれば、便宜をはかり、かなり迅速に対応している。


もはや、『判例秘書』は、裁判官にとって無くてはならない『起案バイブル』なので、その手当は怠れないということなのでしょう」


実際、『判例秘書』の運営会社「(株)エル・アイ・シー」と、「最高裁判所図書館」は提携関係にある。


事件にはそれぞれ個別の事情があり、関係者の思いや関与の度合いもまちまちだ。いったい、どのように「コピペ」すれば、判決が書けるのか。


「『コピペ裁判官』の特徴は、訴訟で争われている事実認定はどうでもよく、執行猶予にするか実刑にするか、原告の請求を認めるか認めないかにしか関心がない。


だから、論理の組み立ては、過去の判例をそのまま借用し、結論部分に有罪か、執行猶予かを書けばいいだけです」(元裁判官)

さすがの最高裁も、このような実態を知ってか、危機感を募らせている。


寺田逸郎最高裁長官は、昨年6月23日、高裁長官、地裁所長、家裁所長を一堂に集めた会議で、その危機意識を述べた。


「合議体による審理を充実させたり、裁判所内外での意見交換の機会を増やしたりして、多角的な視点を持った議論に裏付けられた審理運営を積み重ねることを通じて、紛争の実相を捉えた深みのある判断に至るためのプラクティス(註:訴訟手続き)を形成していく必要がある」


「合議体による審理」は、そもそも自由闊達な意見交換が鉄則だが、実際には裁判長が意見を促しても、「言っていいんでしょうか」と尻込みする若手裁判官は少なくない。


また、裁判長によっては、「話しにくい雰囲気が結構ある」うえ、地裁の所長が、部下の裁判長に「『もっともっと合議を活発にやってくれ、若い者をもっと育ててくれ、事件は少し遅れてもいいから、その時間を割いて若い者を教育してくれ』と言うと、『いやいや、所長、そう言っても今忙しいんですよ。忙しくて、なかなかそんな暇はないというのが本音なんだ』という」(前掲・『裁判官の在り方を考える』)

ある若手裁判官もまた、こう言った。


「わたしは、どちらかというと厚顔無恥なほうなので、言いたいことは言うんですが、打たれ弱い後輩がいるのも事実。部総括(裁判長)と違う意見を言って、反論されたら、直ぐ引っ込めたほうが楽といえば楽ですから。


この事件では、部総括に絶対負けないという、気概のある人が全体的に減っている。また、部総括にしても、部下の意見を受け止めるキャパに欠ける人が増えているように思います」


実際、この若手裁判官の周りでは、裁判長に意見する裁判官は煙たがられ、裁判長の意見に素直に従う裁判官の評価は高いという。


もちろん、すべての裁判所において、合議が尽くされていないわけではない。あるベテラン裁判長は、「僕なんかは、意見が分かれた時は、最終的にみんなが納得するほうがいいから、日を置いてもう一回合議する。とことんやるなかで、僕が意見を変えることもあるし、部下の裁判官が意見を変えることもある。合議を尽くすことは、裁判を練り上げるだけでなく、裁判官自身の成長にも繋がるので、いつも、とことんやりましょうと言っている」と言う。


憲法で保障されている「裁判官の独立」と「身分保障」は、独自の意見を述べる権利を守るためのものだ。多数意見を気にすることなく、「良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」のが裁判官だからだ。


しかし繰り返しになるが、多くの裁判官は、最高裁の意向を気にし、自己規制し、長いものに巻かれてきた。


「いまになって、いくら長官が音頭をとって、自由にものを言い合い、建設的な議論ができる組織にしようといっても、そう簡単ではない。


人の養成というのは、時間のかかるものです。最高裁だけでなく、高裁長官も地裁所長も、司法行政に携わっている人たちが、みんなで協力しない限り、まず実現しない」(前出、最高裁事務総局に勤務経験のある元裁判官)


ところが、その協力が容易ではない。高裁長官や地裁所長のなかには、マスコミや世間の目を気にするあまり、部下への無意味な統制を、一向にやめない人がいる。


「大阪高裁管内の各裁判所には、午後10時以降は、飲み屋では酒を飲まないで帰宅するようお達しがでています。


4年前に大阪家裁の書記官が、酒に酔っ払って帰宅途中、すれ違った女性と口論になり、顔を数回殴って逮捕された。それによって出されたものです」(ある裁判官)