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第282回 個性の多様性|塾長雑感

ニュースでLGBTQの政治家や法律家という形で取り上げられることがなくなる社会を目指すのが憲法13条前段の個人の尊重です。

#ポストモダン

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自分が自分であることは、他者から縛られて在るのではない。松が松であることは、松が竹でないこと、そういう人間の判断とは関係のない話である。

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 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、
 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして
 も、それは本質的に数学的に不可能であり
 (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し
 ない)、どんなに努力して回避しようとして
 も民族・言語の多様性は必然的に発生する
 ものである

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僕にいわせると「発生の機は螺線的運動にあり」というのサ。なんでも物の発生するというのは君も知ッている通り「力」の所為サ。その力で逐いやらるるものは則ち先にいうた原則で必らず螺旋的に動くのサ。ソコデこの螺線的運動は力のある限りは続くのだ。何故螺線的運動をするかというに、世界は元来、なんでも力の順逆で成立ッているのだから、東へ向いて進む力と、西に向て進む力、又は上向と下向、というようにいつでも二力の衝突があるが、その二力の衝突調和という事は是非直線的では出来ないものに極ッてるのサ。所で互に曲線的になるのだよ。曲線的ならば衝突してもよいのサ。何故というに、一直線上で同量の二力が衝突する時はともに無となって仕舞うが、曲線上で衝突する時は中々無になる場合は少い、又直線的で反対の力が互に衝突する時は反射して走しる力の有様が曲線的に反対の力が来て互に撞着時よりおもしろくない。直線は一種直線ぎりだが、曲線はいろいろの度を無窮の多数に有している、有則曲線、無則曲線、実に人間には分らないほど色々の曲線がある。たとえば有則の曲線の場合でいおうか。ここに仮定した二点があるとして、二点を貫く曲線をブンマワシで書て見玉え、またそのブンマワシの心を動かして同くその二点を貫く曲線を書て見玉え、又そのブンマワシの心を動かして書て見玉え、有則の曲線が無数に書けるよ、実にその相互に異ったる状態を有せる曲線の即ち弧という奴の数は何箇あるか知れない。まして人間の指で書くような出鱈目の曲線は何千万状あるか知れるものではない。このくらい曲線という奴は洒落た奴だよ。だから二力が互に異りたる曲線的に来てぶつかる時は、又何千万様の変化を起すか知れないのサ。ここが即ちおもしろい所だ。ここから天地万物がメチャメチャに色々の形状をなしてあらわれて来るのだよ。

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九 天帝が一物を造り玉ふにも必ず力徳によりて造りなし給ふにより、善悪相混じ美醜互に交はりてゐるのである。
一〇 世の中には神は此世に何故善ばかりを拵へぬのかと理屈を云ふものがあるが、神は大工や左官でないから指金は持ちたまはぬ、善になるも悪になるも、皆其物の力徳である。夫れで誠の道に赴いて神力を享けねばならぬのである。

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一番簡単なところが一番難しい・・・

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宇宙人生は天の自慊(じけん)的創造である。自己を実現しつつある努力である。
この絶対自慊にして、何等他に俟つ所を求めない生々化育の努力を「誠」と謂う。
誠は天の道である。誠に由(よ)って萬物があり、誠がなければ物もない。人は、此の誠に由って生き、禽獣と異なって自覚を生じ、誠の誠なる所以を体認して之を発揮するようになる。
これを「誠之(せいし)」といい、所当然の道とも謂う。

然し我々は次第に天地人間から分隔して(これも実は偉大な創造分化なのであるが)己私に執着して誠に叛(そむ)き易い。その為に折角の性を傷(そこな)って天と断つの不明に陥った。
そこに諸々の悪が蔓(はびこ)る。「唯天下の至誠のみ能く性を尽くすことを為す」である。

内訟とは自分の煩悩を自分の良心に訟(うった)えることである。