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理論や体系に興味を持つとは、思考の過程ではなく思考の結果を重視することである。思考の結果としての理論や体系を考える段階では、経験や実在との直接交渉としての思考は停止している。

つまり、思考力の問題より、理論や体系の整合性や一貫性の問題が大事なのだ。過激な思考力があった上での理論や体系のはずだが、それが分かっていない。私は、小林秀雄の強靭な思考力を認めるように、廣松渉の強靭な思考力をも認める。が、しかし、小林秀雄が「強靭な思考力 」という問題を重視しているのに対して、廣松渉は「 強靭な思考力」という問題を認識してもいないし 、重視してもいない。こういう傾向は、近代日本の思想家や学者、文化人に共通する。彼等は、理論や体系が、思想や哲学、学問に必要不可欠な原理原則だと思っている。新理論の発見やその理論の普遍化が評価の基準だと思っている。たとえば、日本の多くの学者や思想家と言われる人たちが、思考力や経験よりも理論や体系を重視するのは、大きな間違いである。要するに、彼等が、しばしば、単なる新知識の「輸入業者 」に過ぎないと言われ、軽蔑されるのは、そこに原因がある。多くの学者や思想家は、それで満足しているように見える。小林秀雄ベルグソンは、そこが根本的に違う。そこに、小林秀雄ベルグソンの歴史的存在意義がある。つまり、そこに、小林秀雄の「マルクス論」の歴史的存在意義もある。小林秀雄ベルグソンは、あるいはマルクスは、そういう理論や体系こそが、人間の自由な思考を制限し、捻じ曲げると考える。
小林秀雄は、『 感想(ベルグソン論 )』で、こう言っている。

《 様々な普遍的観念( idees generals )の起源や価値をめぐる問題に関する論争で、哲学史は一杯になっているのだが、もし、そういう所謂哲学上の大問題が、言葉の亡霊に過ぎぬ事が判明したなら、哲学は「 経験そのもの 」になる筈だ、とベルグソンは考えた。》( 『感想( ベルグソン論) 』 )

小林秀雄ベルグソンが言いたいことは何か。哲学者や思想家、学者等が考えているように思われている「 大問題」の多くは、元々、ありもしない「 擬似問題」に過ぎないと言うことだろう。哲学や思想や学問が、本来的に相手にすべきなのは、そういう擬似問題ではなく、「 経験そのもの」という問題ではないのか、ということだろう。

《 実際、彼は、自分の哲学をそういうものにした。哲学という仕事は、外観がどんなに複雑に見えようとも、一つの単純な行為でなければならぬ。彼は、そういうふうに行為して、沈黙した。彼の著作は、比類のない体験文学である。体験の純化が、そのまま新しい哲学の方法を保証している。そういうものだ。 》

小林秀雄の『感想 』には、要約できるような理論も体系もない。しかし、何かがある。何があるのか。おそらく「 経験そのもの 」があるのだ。経験とは何か。我々が、日々、日常的に、苦しみ悩み、そして喜び笑う時に、切実に感じているものだ。我々は、不思議なことに、学問や思想や哲学を語り、論じ始めると、この「 経験そのもの 」を忘れ、見失うのだ。学問や思想が無味乾燥な知的ゲームになってしまうのは、そういう時だ。

《 実在は、経験のうちにしか与えられていない。言い代えれば、私達は、実在そのものを、直接に切実に経験しているのであって、哲学者の務めも亦、この与えられた唯一の宝を、素直に受容れて、これを手離すまいとするところにある。其処からさまよい出れば、空虚と矛盾とがあるばかりだ。 》

哲学も学問も、そして科学も、この「経験そのもの 」と真剣に向き合うところに成立する。

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