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呉座勇一は『 応仁の乱』の序文で 、内藤湖南の「 応仁の乱」論を、批判的に引用している。内藤湖南は、応仁の乱で、曰本社会の構造は革命的変化を遂げたと言う趣旨の発言をしている。それに対して、呉座勇一は、誤解を恐れずに言えば、応仁の乱の前後で、「 何も変化はなかった 」論を展開しているつもりらしい。私は、呉座勇一的な議論を、典型的な「 修正主義」だと看做す。要するに、内藤湖南が、大胆な革命的仮説を提起しているのに対して、呉座勇一は、内藤の仮説を正面から批判し、それに代わるような新説を提示するのではなく、「 いや、革命的変化などなく、歴史は淡々と続いてますよ 」と一種の常識論を説いているだけである。こういう歴史分析は、才能のない凡庸な歴史家がよくやる事だと思う。そして、細部にわたる詳細な歴史分析を延々と繰り返す。文学や哲学の分野でもこういう例は少なくない。大胆な理論や仮説を議論することを避けて、瑣末な枝葉の議論に終始するポストモダン的な瑣末主義である。呉座勇一も、その一人であろう。こういう人が論争に直面すると 、普段、本質的な議論をやったことがないが故に、実に幼稚な、単純素朴な、素人受けするような議論しか出来ない。

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1908年(明治41年)には京都帝國大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に内藤湖南東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。