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 中西氏は万葉集研究の第一人者で、2013年には文化勲章を受章している。中西氏は元号中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」と話した。

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立命館大白川静名誉教授の名著「字通」によると、「令」とは、「礼冠をつけて、跪いて神意を聞く人の形。神官が目深に礼帽を著けて跪く形。神意を承ける象」(日本においては、八百万の神々に日々、世界の恒久平和と繁栄を祈っておられる神官の最高位・天皇陛下を意味している)という。

「令和」の出典となったくだりには、そうした国際性と、やまと言葉で見事に柔らかい歌をよむ日本性が同時に感じられ、新時代を祝う考案者の意図に気づいた今は「なるほど」と感心している。

最終的に安倍総理大臣に一任する形で「令和」が新元号に決まりました。

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 終戦から1年あまり経た昭和21年11月9日午後8時、元滋賀県知事であり、近江神宮奉賛会副会長を務められ、また同年9月21日まで侍従次長であった稲田周一氏が、昭和天皇の御名代として近江神宮に参拝されました。
 当時の平田貫一宮司に対し「過日天皇陛下には総理以下重臣を召されて、異例のお言葉を賜った」と語り出し、「このたびの敗戦はまことに遺憾の極みであるが、1300年前の天智天皇の御時、唐・新羅の軍と白村江に戦って大敗した歴史がある。天智天皇は直ちに兵を撤せられ、国内諸政の一新を企てられ、文化を振興、国力の充実を図られた。これを模範として、諸政一新、文化経済を盛んにして永い将来に対処したいと強く念願しているから、一同もこの旨を体して大いに発奮努力して欲しい」との直話を賜り、近江神宮に参拝し神助を仰ぐよう、特命を頂いて参上したとのことでした。翌朝稲田氏は正式参拝し、昭和天皇の大御心をお伝え申し上げたのでした。

 昭和天皇は明治の原点こそ戦後の原点であると教えられた。湛山も同じ精神を敗戦と同時に筆にした。戦後を歩むには明治の初心に立ち返れ。「復初の精神」である。復初はただの復古ではない。原点の確認と建設的な改良である。若返りなのだ。

 21世紀の日本人が志すべきは、近代国家発足のさわやかな初心を追体験することである。

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇條ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。

 明治大帝とまで称され、あたかも近代日本人の模範とみなされがちである。だが、そもそも欧化主義を潔しとはせず、本心では幼少の頃から慣れ親しんでいた古来の伝統にこだわっていた。

 しばしば、丸山眞男竹内好も戦後における進歩的文化人の代表のごとく扱われる。彼らは終戦直後、上官から「民主主義とは何か」と問われた。2人とも、それは「五箇条の御誓文」に述べられている、と答えたという。

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8月13日の講義では、春秋左氏伝の「国の将(まさ)に興
らんとするや明神これに降る」の一節を引いて、こう語った。

神に対する深い自覚があったならば、日本はこうならなかっ
た。神を汚すこと、近代日本の指導者たちほど、甚だしい
ものはなかった。

「神に対する深い自覚」の意味する所は、明治天皇の次の御製
から推察できるだろう。

神祇
かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと

毎朝、はるか伊勢神宮を拝んで心を澄ませ、その無私の心を
もって、日々の政治上の報告を聞いたという御製である。安岡
は、近代日本の指導者は、イデオロギーや私利私欲に囚われて、
神が人民の安寧を願う心を持って、それを政治において実現し
よう、という使命感を失っていた、と言うのであろう。

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 明治天皇、皇后が第一に心掛けられたのは何か。日露戦争の翌年、天皇は詠まれた。

 《かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと》

 天皇家にとって「まつりごと」とは「祭事(まつりごと)」が第一であり、天皇は国民にとってまず神道の大祭司(プリースト)である。それだから「伊勢の宮居を拝みて」の後に「まつりごと」の第二である「政事(まつりごと)」の仕事に国王(キング)として耳を傾けるのである。

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「吾れ之を聞く、国の将に興らんとするや民に聴く、将に亡びんとするや神に聴く。神は聡明正直にして壱なるものなり。人に依って行う。虢(かく)凉徳多し(虢国は酷薄な政治を続けて来た)それ何の土(くに)か之を能く得ん」

 「和」が「平和」の含意のある「調和」であることは自明のようだ。解釈論が生まれるのは「令」である。 安倍首相は、「令和」に、「一人ひとりの日本人が明日への希望と共に、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい」という願いが込められていると説明した。それはそれでいい。世論調査でも好意的な評価が多いようだ。 だが、「令」が何なのかは、はっきりしないところはある。自民党石破茂元幹事長がその点に指摘した、と広く報道されている。https://www.sankei.com/politics/news/190401/plt1904010037-n1.html

 「令」に命令の意味がある、と批判的な受け止め方では、しばしば指摘されているようだ。

 外務省としては、「令和」は「美しい調和」だと説明しているということなので、「令」は「美しい」という意味らしい。ただ、この「令」の美しさは秩序だった調和だ、ということになるのだろう。

 BBCは「令和は、Order and Harmony」と報じたという。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190401-00000003-jct-soci

 この場合の「order」は、「命令」というよりも、「秩序」を含意していると言うべきだろう。たとえば、議場が騒然とした際に英国議会の下院議長が「order」と叫び続けるのは、静かにしろと「命令」しているというよりも、「秩序」を回復するように議員たちに求めているからである。http://www.news-digest.co.uk/news/news/tabloid/18507-2019-01-18.html

 「Order」は、国際政治においても重要な概念だ。「英国学派(English School)」の総帥というべき存在の国際政治学者ヘドリー・ブルの主著『アナーキカル・ソサイエティ』には、「世界政治における『秩序(order)』の研究」という副題が付されている。私も博士課程の学生としてLSE(London School of Economics and Political Science)に在籍していた頃、学部学生向けの(教授講義補助)ゼミを運営するため、ブルの本を繰り返し熟読したことがある。この場合の「order」は、具体的な為政者による命令というよりも、それらを成り立たせる根本的な秩序のことだ。

 日本は、武力による平和を求めない。つまり、「法の支配」にもとづく「秩序」だ。そのような意味での「美しい調和」を求めている。

 「令」に含まれているのは、否定的な意味での「命令」というよりも、律令」の「令」としての「法」、国際社会にも通じる「法の支配」に通ずる「Rule」、つまり法の支配を基盤にした「秩序」なのではないか。少なくとも国際的には、そのような姿勢で、「美しい調和」を求める「秩序と平和」を説明していってほしい。

平成に代わる新しい元号が「令和」と決まったことについて、海外ではイギリスの公共放送BBCが「令」の意味を秩序の「order」だと速報するなど、一部メディアが、「令」が一般的に「order・秩序」や「command・指令」の意味で使われているなどと報じました。

これを受けて、外務省は正確に理解してもらおうと、「令和」には「beautiful harmony」、美しい調和という意味が込められていると説明するよう、海外に駐在する大使などに指示しました。

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