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公共の福祉の意味については、争いがある。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である。

一元的外在制約説
公共の福祉という用語は、当初は人権の外にある社会全体の利益を指すために用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く認められていた。この説は、もっぱら人権の外部に「公共の福祉」なる概念が存在し、あらゆる人権保障に制約を加えることができる、という意味で「一元的外在制約説」と呼ばれる。

この説は現在では支持されていない。なぜならば「公共の福祉」を根拠にいかなる人権も制限可能であるならば、大日本帝国憲法の“法律の留保型人権保障”(全ての人権規程に「法の定める範囲内において、かつ臣民の義務に背かない限り」という一語が記されている)と全く同じ運用が可能になってしまい、個人の自由を最高の保護法益とする日本国憲法とまったく相容れなくなるからである。

一元的内在制約説
宮澤俊義により主張され通説とされている学説である。公共の福祉を人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理と解する。この意味での「公共の福祉」とは、憲法規定にかかわらず、すべての人権に論理必然的に内在しているとする。この「公共の福祉」原理は、自由権を各人に公平に保証するための制約を根拠付けるためには"必要最小限度の規制"のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保証するために社会国家的公共の福祉として機能する、とする。

例えば、憲法上保障される表現の自由は、同じく憲法上、幸福追求権の一種として保障されると解されているプライバシーの権利や忘れられる権利と衝突する。このような事態が生じる場合に、両者の調整を図るための概念が「公共の福祉」である。

このような考え方に対して、人権を制約する立法の合憲性を具体的にどのように判定していくのか必ずしも明らかではなく、具体的な基準は何かという基本的課題に対する解答を判例の集積に委ねてしまい、実質的には外在的制約説と大差のない結果となるおそれも生じるのではないかとの批判がある。このため、一元的内在制約説を人権制約に関する具体的な違憲審査基準の規準として準則化したものとして、「比較衡量論」(ad hoc balancing)や「二重の基準」 (double standard) の理論が提唱されている。

近時の学説
近年、一元的内在制約説の理論的妥当性は、大いに疑問視されるようになっている。長谷部恭男は、人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならないとの前提は、『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難であり、すべての規制が公共の福祉という概念で一元的に説明がつく一方、公共の福祉を名目とする国家による規制をも無制約とする危険をはらんでいると批判している。もともと「公共の福祉」は国家ないし国家活動の目的一般を指すことばであり、人権相互の矛盾・衝突の調整を「公共の福祉」の名で呼ぶことへの疑問は、内在制約説の提唱者である宮沢俊義自身が認めるところでもあった。また、従来憲法学者の間では、人権規制の限界画定に関する基準を各個の権利・自由につき具体的に明らかにすることに主眼が置かれ、「公共の福祉」の原理そのものの意味について必ずしも深く考察されてこなかった。

そこで、近時の学説では、人権の制限根拠を人権相互の矛盾・衝突の調整に限定せず広く認めた上で、より詳細な類型論によって公共の福祉の意味を限定しようと試みられている。

法の支配とか立憲主義だとか個人主義というものは、父神一神教=父権主義に対する批判から生まれたものだ。
つまり、支配被支配の関係を否定して、個人を尊重しようとするものだ。
そこでは、全と個のバランスが図られる。
そのバランスの調整原理が「公共の福祉」だ。
だから、個別具体的に考える必要があるのだ。
一方、一神教における善悪二元論では「一律に」考える。
この「一律に」を「公共の福祉」に置き換えたものが「外在的制約」として批判される。
そして、ネトウヨも左翼も善悪二元論だ。

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 本来、「個」と「全」の調和が人類生存の理想であることは、何人も疑わないであろう。しかし、現実の問題としては、どこにその調和を求めるべきかは、容易にわからないので、それぞれの時代に制約され、ある時は個の尊重に傾き、ある時は全の尊重に傾く。近代私法の態度も、それが主張された時代が、――近世における「自我」の自覚・発展が、まず宗教改革によってローマ旧教の権威を破り、ついで、文芸復興によって思想的伝統の拘束を脱し、さらに政治的に――封建制度を打破して個人の尊厳と自由とを主張した時であった関係上、「個」の主張に傾き、「全」との調和は、国家権力に対する関係でも、他の個人に対する関係でも、いささか軽視されたきらいがあった。そこで、二〇世紀に入ってから、「全」を強調して「個」を抑える傾向が現われてきた。一条一項は、この思想の宣言である。だから、「公共の福祉」というのは――日本国憲法にもしばしば用いられている(一三条・二二条・二九条)のと全く同様に――個々人の個別的利益を超えた社会全体の利益である。また、「適合しなければならない」というのは、私権の内容も効力も行使も、すべて公共の福祉と調和するものでなければならないという趣旨である。

 社会生活においては、すべての個人とその集合たる団体とが、財産上も身分上も、それぞれ独自の地位と独自の職分を有し、この地位にあってこの職分を全うすることによって、自己の幸福を追求すると同時に、国家社会の向上発展を導いている。従って、個人の幸福と社会の向上を目的とする私法規範は、個人とその集合たる団体に対して、その地位を保持しその職分を全うすることができるように法律的な力を認めることを適当とする。これが、私法関係が権利義務の関係から成立している理由である。社会は「個」と「全」との有機的結合である。「個」の幸福なしには、「全」の向上はなく、「全」の向上なしには、「個」の真の幸福はない。私権は「個」をして真の幸福を追求することを可能ならしめることによって、「全」の向上発展をはかろうとするものである。この意味において、「私権は公共の福祉のために存する」といってもよい。少なくとも、私権は、公共の福祉と調和する限りにおいてのみ、国家の承認・保護を受け得るものである(憲一三条参照)。戦後の改正によって加えられた民法第一条の第一項は、この原理を宣言したものである。

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第一論はロバート・フィルマーによる「国王の絶対的支配権は人類の祖アダムの子どもに対する父権に由来する」という王権神授説に対する反論である。

以下は、左翼弁護士の見解。

バランスを調整しないのは「自分たちだけは好き勝手言」えるようにするためだ。

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国連のグテーレス事務総長は8日、声明を発表し「カシミール地方の最終的な地位については、当事者が選ぶ平和的手段で解決することを定めた両国の合意がある」としてインド政府の決定は一方的だという認識を示しました。

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危ないところだったのよ。
かめいしさんが判決全文を読んでもいない感情的な判決批判はともかく的外れってツイートしたあとみんな批判をためらうようになったり「判決読んでないけど」とかつけたあとで申し訳なさそうに違和感を表明するようになった。
また言葉を失うところだった。黙っちゃだめだ。

これ私自身もそういう傾向がある自覚はあるんですが、左翼というかリベラルというか人権とか平和とか弱者保護みたいなスタンスで社会や政治のあれこれを憂いていると、一度、「悪者」「敵対者」認定した者に対してはとことん冷酷、残酷になれるという危険があると思っています。敵味方二元論みたいな。

「リベラルでヒダリ寄りを自認する私は、それなのに、強権的で支配力のある指揮者によるオーケストラ演奏が好きだったりする。」