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中東のレバノンでは、去年起きた大規模な爆発を受けて当時の内閣が総辞職したあと1年以上にわたり組閣ができず政治の混乱が続いてきましたが、元首相のミカティ氏が10日新内閣を発表しました。

一方で、各政治勢力の対立で長期化した政治の混乱と経済危機の解消につながるかは不透明な状況です。

レバノンでは去年8月、首都ベイルートで大規模な爆発が起きて200人以上が犠牲となり、この責任をとるかたちで内閣が総辞職しましたが、各政治勢力の対立で1年以上にわたって組閣ができず政治の混乱が続いてきました。

ことし7月に新たな首相候補に指名された元首相で実業家のミカティ氏が組閣作業を続け、10日、新内閣を発表しました。

ミカティ氏は記者会見で「国の状況は極めて厳しい。レバノンの崩壊をとめるため全員が手を携える必要があり、いまは可能なかぎりの支援が必要だ」と述べ、国際社会にも支援を呼びかけました。

レバノンは去年3月に事実上のデフォルト=債務不履行に陥り、新型コロナウイルスの感染拡大やベイルートでの爆発も重なって深刻な経済危機に直面しています。

ミカティ氏は組閣にこぎつけましたが、今後も異なる宗教や宗派間の利害の調整で政権運営が難航することも予想され、長期化した政治の混乱と経済危機の解消につながるかは不透明な状況です。

2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件では、事件を首謀した国際テロ組織アルカイダを率いるオサマ・ビンラディン容疑者と、実行犯19人のうちの15人がサウジアラビア出身でした。

事件から20年となるのを前に、事件の直前までサウジアラビアの情報機関のトップを務めたトルキ王子が西部ジッダでNHKの単独インタビューに応じました。

その中でトルキ王子は1989年にビンラディン容疑者と会談した内容について、南イエメン共産主義政権と戦いたいと言っていた。そのためにアフガニスタンから配下の戦闘員を送り込めるとのことだった」と述べ、戦闘員の派遣を提案されたことを明らかにしました。

トルキ王子はこの提案を拒否したということですが、その翌年にイラククウェートに侵攻した際にもビンラディン容疑者は、配下の戦闘員をクウェートに派遣するとサウジアラビアの国防相に提案しこれも拒否されたということです。

ビンラディン容疑者はサウジアラビア政府がアメリカ軍の駐留を受け入れたことでアメリカやサウジアラビアへの憎しみをつのらせたことが知られていますが、トルキ王子は「この2回の会談からビンラディン容疑者はサウジアラビアへの反発を強めた。そしてあの15人を選んだ。わが国は永遠に汚名を背負わなくてはいけない」と述べ、自身との会談も原因となってビンラディン容疑者が国の威信を傷つけようとサウジアラビア人15人を事件の実行犯として勧誘したとみていることを明らかにしました。

オサマ・ビンラディン容疑者はサウジアラビア出身の国際テロ組織アルカイダの指導者で、2001年にアメリカで起きた同時多発テロ事件の首謀者です。

ビンラディン容疑者はサウジアラビアで1950年代に、建設会社などを経営する、王族との深いつながりがある裕福な家に生まれました。

1979年に旧ソビエトアフガニスタンに侵攻すると、現地のイスラム教徒を共産主義から守ろうと考え、現地に渡航しました。

アラブ諸国からアフガニスタン渡航した戦闘員の生活を豊富な資金力で支え、支持を集めていきました。

こうした活動で築いた人脈をもとに1988年、アルカイダを結成しました。

1990年にイラクの当時のフセイン政権が隣国クウェートに侵攻したことを受けてサウジアラビア政府がアメリカ軍の駐留を受け入れたことで反米感情を高めていったと言われています。

1994年にはビンラディン容疑者の行動に危機感を強めるサウジアラビア政府によって国籍を剥奪されました。

ビンラディン容疑者はアメリカやイスラエルへの強硬な姿勢を鮮明にし、世界中のイスラム教徒に行動を起こすよう呼びかけてきました。

1998年のケニアタンザニアにあるアメリカ大使館の爆破事件2000年のイエメンでのアメリカ軍の駆逐艦への自爆攻撃など、アメリカが標的とされた事件に関わったとされています。

2001年のアメリカ同時多発テロ事件では、アメリカ政府が事件の首謀者と断定し、潜伏先とみられていたアフガニスタンで身柄の拘束に乗り出しました。

長らく行方がわかっていませんでしたが、2011年にパキスタンに潜伏しているところをアメリカ軍の特殊部隊に襲撃され殺害されました。

サウジアラビアのトルキ王子(76)はアメリカ同時多発テロ事件の直前まで20年余りにわたってサウジアラビアの情報機関のトップを務めた有力王族です。

トルキ王子は3代国王ファイサルの息子で、アメリカで教育を受けたあと、1977年からサウジアラビアの情報機関「総合諜報局」の長官を務めてきました。

サウジアラビア出身のオサマ・ビンラディン容疑者が1988年にアルカイダを結成して以降ビンラディン容疑者と面会するなどして動向を注視してきました。

1998年には、ビンラディン容疑者の身柄の引き渡しを求めて、潜伏先のアフガニスタン渡航し当時のタリバン政権と交渉に当たりました。

トルキ王子はアメリカ同時多発テロ事件が起きる直前に長官を辞任したあと駐米大使駐英大使などを歴任し、現在は政治や外交の第一線から退いています。

トルキ王子は情報機関のトップを長く務めてきたことからビンラディン容疑者やアルカイダについて詳しい事情を知る人物のひとりとされています。

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