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1964年、1回目の東京オリンピックイヤーに東京大学に入学。迷わず美術サークルに入った。ちなみに「東洋の魔女」の異名で知られる女子バレー・日紡貝塚の活躍に影響され、体育会バレー部も兼部したが、練習が厳しく五輪まで持たずに退部したという。

東大では、主に法学部へ進む文科一類だったが、高校の教師の言われるがままに受けただけで、特に法律に関心があったわけではなかった。祖父は元裁判官の弁護士だったが、父はサラリーマン。希望する仕事を聞かれると「会社員」と答えていたという。

転機は、法学部への進級に際し、美術サークルの同級生(=川端和治弁護士)から「東京大学法律相談所」に入ろうと誘われたこと。市民からの法律相談に答えたり、模擬裁判を開いたりする法律系団体で、1947年に当時の法学部長だった我妻榮氏らのもと発足し、今も続いている。「法律の授業はあまり面白くなかった。でも、『相談所』の仲間と法律のディスカッションをするのは面白かったですね」。

周りが受けるというので、4年時に司法試験と国家公務員上級試験を受験し、ダブル合格。大蔵省と通産省から内定が出たが、「相談所」の同級生(=久保田康史弁護士)が弁護士になると言うので一緒に辞退した。「弁護士のほうが面白そう、好奇心が満たされそうと思っただけで、深い理由があったわけではないんですけどね」。

あえて言うなら「時代」だったと弘中氏は振り返る。1960年代後半はベトナム戦争反対運動や学園闘争など、世界的に学生運動が活発だった時期。同世代の弘中氏も官僚より在野の弁護士のほうが意義のあることができると考えるようになっていた。安田講堂が占拠されるのは、弘中氏が卒業した翌年のことだった。

「大学で芦部信喜先生の憲法の授業を受けて、人権に興味を持ちました。抽象論ではなく、実際に進行中の問題があって、司法修習時代は『家永教科書裁判』についてのシンポジウムを開いたこともありました。入管法にも興味があって有志で勉強会もやっていたんです」

「一審では基本的人権ベースで戦って勝ったのですが、控訴審になると国は作戦を変えて行政裁量論に持っていった。裁判所は『行政には行政の都合があって一定の裁量を認めないと回らない』と言われると弱い。教科書的には、在留外国人にも憲法基本的人権が保障されることを認めた判例という面が強調されていますが、入管行政に広範な裁量権を認めた判例でもあります」

「若いころから、他の事務所の弁護士とチームで仕事をすることが多かったですね。他の人のやり方や考え方がわかって参考になりました。自由に意見を言い合える人、信頼できる人とチームで事件をやるのは面白い。いろんな視点から物事を捉えられるし、良いアイディアも浮かびます」

「依頼者を信頼できないと弁護はできないんですが、話を聞いて、気になったことを質問する。そのやり取りで本当のことを言っているか、だいたいわかるじゃないですか。三浦さんがウソをついていると思ったことはないですね」

先入観を捨て、まずは自分の目で確かめてみる。これは弘中氏が何より現場に足を運ぶこと、関係者に話を聞くことを重視していることにも通じる。実際、抽象的な法律論を組み立てるより、現場で生の事実を探すほうが性に合っているという。事件によって弁護団で担う役割は変わるが、今も気になることがあれば、なるべく自身で調査する。試行錯誤の連続だが、困難さがあるからこそ、刑事弁護は面白いのだという。

「検察の弱点って、長所でもあるんですけど、やっぱり組織なんですよ。組織は柔軟性がない。上からストーリーを示され、『こういう調書をとれ』と言われたら、それしかとりようがない。

警察が動く一般事件と違って、特捜事件は自ら捜査して起訴するわけですから、逮捕したら後戻りができなくなってしまう。そこから無茶苦茶が始まるわけですよ」

「検察の弱点って、長所でもあるんですけど、やっぱり組織なんですよ。組織は柔軟性がない。上からストーリーを示され、『こういう調書をとれ』と言われたら、それしかとりようがない。

警察が動く一般事件と違って、特捜事件は自ら捜査して起訴するわけですから、逮捕したら後戻りができなくなってしまう。そこから無茶苦茶が始まるわけですよ」

弘中氏の現在が「運命」によって導かれたものだとするならば、「偶然」出会った人たちとの関係を大事にしてきた結果の「必然」と言えるのかもしれない。信頼し合える良好な人間関係が良いチームワーク、満足度の高い結果を生み、時をへて新しい人と事件を運んでくる。

弘中氏のキャリアを振り返れば、薬害訴訟の代理人をやりながら、薬害事件の被疑者・被告人を担当するなど、敵と味方、強者と弱者といった二元論では割り切れない仕事が多い。メディア相手の訴訟を数多くこなす一方、表現の自由を守るため雑誌『噂の眞相』や『創』の代理人・弁護人を務めたこともある。特捜事件でも、自民党だった鈴木宗男氏の弁護をしたかと思えば、民主党時代の小沢一郎氏が巻き込まれた陸山会事件にも尽力した。

一見すれば矛盾しているように思うかもしれないが、先入観や党派性に囚われることなく、人や事件という「モデル」をさまざまな角度から観察しているからこその柔軟性なのだろう。その観察眼で見つけだした「事実」という絵具をキャンバスに重ね、対立する相手とは違った絵を描いていく。

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