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『さよならパイプのけむり』

P246

 さまざまな朝、昼、夜が巡って行った。輝かしく晴れた日、八丈島は天国もかくやと美しかった。豪雨・暴風の日、八丈は地獄もかくやの様相を呈した。澄んだ夜空には大きく天の河が懸かり、一転して近くの防風林をわななかせ、悲鳴を上げる木々の上を雨と風の塊りが襲って過ぎる夜もあった、そして雨、雨、雨。
 いつも机の上に貼り付いている僕の上を、大自然は色々と姿を変えながら巡って行く。

P249

 昭和五十年ーー一九七五年の秋、島を襲った記録的な颱風のために書斎は半壊し、修理はしたけれども、白蟻の猛威の前に応急の修理も空しく、遂には取り毀さねばならなくなった。

 そんな僕に憐憫の情を抱いたのだろう。十年の間に大学で建築学を専攻し、エール大学の大学院への留学を終えて帰って来た息子が言った。
「僕が親爺さんの書斎を再建しましょう」
申し出に感激した僕が答えた。
「まるで、『本朝廿四孝』に出て来るような話しだ。やるか」
「でも、費用は親爺さん持ちですよ」
「無論だ」
「僕でしたら、島の風土も風向きもよく知っていますし、白蟻の害など受けない建物を作れると思います」
「よし、頼む」
 一年後、一九九三年の秋、超モダンな今の書斎が完成したのである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180728#1532775048

P270

 二〇〇〇年四月六日午前四時〇五分一四秒、家内が死んだ。

 その日は小渕内閣森内閣に代った日だった。

孫の小学校入学の話しをしたりして楽しく過ごし

家内は眼を覚まして、首相は何を言ったの、と訊き、相も変わらぬ凡俗そのものだよ、おやすみ、と言い合って二人とも寝に就いた。

午前二時半に僕が起きた時、家内は又眼を覚まして

P346

古代以来、農村、漁村の共同体の中で分子として成立して来た日本人の大多数は、極度に村八分を恐れ、個人が一個人として取り残される事に対する恐怖ばかり先き立って考える思想的、感覚的習慣が未だ仲々払拭されないのだと思う。こうした事は、個人としては全く弱く、集団を形成した時に矢鱈に強気になる恐ろしさを惹き起こす全体主義への危険な警鐘が聞こえるでは無いか。

P348

 全く、日本程ムラの好きな、ムラに頼る性癖を持った人達が住む国は無かった。会社、軍隊、政党、結社、学校、学閥、閨閥ーー。そして、思想さえムラの形成に役立った。共産主義者共産主義を信奉し、自由主義者自由主義を信奉し、民主主義者は民主主義者を信奉し、国家主義者は国家主義を信奉して集まる。

P353

 今年の夏は災害が多かった。

P356

僕はよく旅に出た。日本国内の妙な傾向に汚染する事を避けて、自分が自分で居る事を確立するためだった。日本の国内では、敗戦後日本人が平凡で疲れた頭脳で考え出した「“平和”ファシズム」「“民主主義”ファシズム」「“自然保護”ファシズム」「“差別反対”ファシズム」が横行し、そうした傾向は、批判する者がマイノリティーであると見るや、マジョリティーの暴力を以って圧し潰し、発言さえ封じてしまうという、まるで現象的には戦争中と、さも似た様相を呈していた。日本は、羽仁五郎さんがあゝも憂えたように、矢張りファシズムの跳梁し易い国、村八分が横行する国なのだった。ファシズム、“民主的”“平和的”“戦争反対”“自然保護”“差別反対”の仮面を被って日本の社会をのし歩いていた。僕は決して反体制的人間では無いが、僕の“大勢派”嫌いは、こうしてのし歩く者達の尻馬に乗らずに「自分は自分で居る、考える、生きる」を実践する事だった。「パイプのけむり」は、その事を書く事を目的とした。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180803#1533293467
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180802#1533206722
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180801#1533120227