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 昭和天皇が85歳だった1987年4月、戦争責任をめぐり、「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と発言したとされる側近の日記が残されていることが分かった。昭和天皇に長く仕えた小林忍(こばやししのぶ)侍従(故人)が記したもので、家族が保管していた。

 共同通信が小林氏の遺族から日記を入手し、23日、その一部を報道各社を公開した。小林氏は人事院の出身で、昭和天皇の侍従になった74年4月から、香淳皇后が逝去する2000年6月までの26年間にわたって日記を記していたという。


 それによると、昭和天皇が戦争責任を気にかける発言が記されていたのは87年4月7日の日記。「昨夕のこと」と記され、昭和天皇がお住まいの皇居・吹上御所で小林氏に語ったとみられる。


 日記には、小林氏がその場で、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したも記されていた。


 先の大戦を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気にかけていた心情が改めて浮き彫りになり、重要史料といえる。62年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記され、昭和天皇がこの前日に住まいの皇居・吹上(ふきあげ)御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁昭和天皇の負担軽減策を検討していた。


 小林氏は昭和天皇の侍従になった49年4月から平成12年6月まで日記をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利(かずとし)氏とノンフィクション作家の保阪正康氏とともに分析した。


小林忍元侍従は、昭和49年から昭和の終わりまで14年余りにわたって、昭和天皇の側近を務めました。


小林元侍従はこの期間を含め長年にわたり日記をつけていて、このうち、昭和62年4月7日の日記には、当時85歳だった昭和天皇が、前日に「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と語ったと記され、戦争責任をめぐる苦悩などを周囲に漏らしていたことがわかりました。


こうした戦争責任をめぐる昭和天皇の心情は、すでに公表されているほかの侍従の日記などにも記されていて、日本近現代史が専門の日本大学古川隆久教授は「これまでほかの資料で大筋わかっていたことが詳しく裏付けられた。昭和天皇が戦争責任の問題を長年重く受け止め、高齢になるにつれその思いが強くなっていたことがうかがえる」と分析しています。

昭和天皇ヒトラームッソリーニ、いずれも元々は新体制側から送り出されたのだが、道を誤った。
しかし、アンネ・フランク大神同様、今では神界に昇っている。
香淳皇后昭和天皇と一緒に居られる。
崩御された後、宮崎の青島神社を拠点に戦没者の慰霊にあたられ、今は行に取り組まれている。
最近で言えば、文鮮明安倍晋三深見東州が、同じように旧体制の管理システムに絡め取られている。
深見東州の場合、指導を受けた弘法大師が、例の金井南龍師を操っていた邪神の分身だったのだ。
北一輝も、神の生まれ変わりで我々と同様の特殊なミタマの持ち主なのだが、同じように歪められている。
この他、天理教(したがって、松下幸之助)・大本のうち出口ナオ・生長の家(したがって、稲盛和夫)などが仕組み潰しの宗教にあたる。
尤も、中山みき・出口ナオ・植松愛子らは、仕組み潰しを強いられることを苦にしている。

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『孟子』の公孫丑章句:1の書き下し文と現代語訳

吾嘗て大勇のことを夫子に聞けり。自ら反みて縮からずんば(なおからずんば)、褐寛博と雖も吾惴れ(おそれ)ざらんや。自ら反みて縮ければ(なおければ)、千万人と雖も吾往かんと。

気節(キセツ)とは - コトバンク

気概があって、節操の堅いこと。気骨。

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