自分に合う聖書和訳を見つけるコツは、特定の節を比較することです。例えば「神の名」がモーセに開示される「出エジプト記」3章14節。最新の日本聖書協会共同訳は、「私はいる、という者である」。他の代表的なものを列挙すると、「わたしは、有って有る者」(口語訳)、「わたしはある。わたしはある
— 山本芳久 (@201yos1) 2019年1月4日
という者だ」(新共同訳)、「わたしはなる、わたしがなるものに」(木幡藤子・山我哲雄訳)。「わたしは、『わたしはある』という者である。」(新改訳)、「わたしは『ある』ものである」(フランシスコ会訳)、「わたしはあらんとしてある者である」(関根正雄訳)、雰囲気も意味もかなり違います。
— 山本芳久 (@201yos1) 2019年1月4日
今日までに提出されてきている主な翻訳ないし解釈を掲げておきます。
a. 「わたしは存在するものである」. ヤハウェの存在の絶対性を語ることばと解します(七十人訳「エゴー・エイミーー・ホ・オーン」εγω ειμι ό ωv)
b. 「わたしはなろうとするものになる」。ヤハウェの絶対的自由意志が語られている、と解します。
c. 「わたしは『わたしである』である」。 神の名を問うモーセの問いに直接解答を避けた表現だ、と見られます。
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2019/01/03/200130(「地に足がついている 」とは、主体的ということ)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2019/01/03/200120(何ごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる(西行))
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2019/01/01/200150(昨日は神の広大さ(immensitas)の話が、三位一体の正当化の話に直結されていて面食らった。)
https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/12/30/200120(真の自由は、そういったところとは独立して存在する絶対的な個である)
最初の「I am that」の「that」は関係代名詞で、後に続く文、「I am」を表しています。
ところがこの「I am」の後ろにあるもう一つの「that」が、重なるために省略されているのです。つまり本当は、"I am that /I am(that)"
なのです。後ろの文の「I am that」は「私は《それ》である」という意味です。ですから《それ》が略されて「I am」となっている部分には、「《それ》と呼ばれているところの私」という意味が隠されているのです。
これらから、"I am that I am" の意味は、次のようになります。
「私は、《それ》と呼ばれているところの者、それである」
さらに言えば、このことから、誰もがそのように宣言してよいということもまた表しています。なぜなら、万物が一つのものから分かれたかけらであり、なおかつ繋がっているからです。あなたという存在は、《それ》のかけらであると同時に、あなたの中にも《それ》の全てが含まれているのです。マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(人間)は相似形なのです。
ですから、堂々と宣言してください。
"I am that I am" 「私は私です」と。