世界中みんな仲良く
— 塩沼亮潤 (@ryojun_shionuma) June 16, 2020
笑みがあふれますように pic.twitter.com/AoJ2dYziBV
慈しむ心をもって みんなで力を合わせて行かなければなりません。 そして自らを省みて常に心の中で反省し懺悔して 自分を高めていく 日々の生活の中に自分の成長があります。 今日より明日という心で命ある限り挑み続ける これが「信仰」ではないでしょうか。 (続く)
— 塩沼亮潤 (@ryojun_shionuma) June 17, 2020
(続き)うそ偽りのない生き方をして「真行」といっていいかもしれません。
— 塩沼亮潤 (@ryojun_shionuma) June 17, 2020
【FM仙台 塩沼亮潤大阿闍梨「今朝の一言」は、radikoから聴いていただけます】https://t.co/Cc7YRaU24z
釈尊や祖師方は、このようには説かない。
#自己愛世間愛
塩沼:「世の中を変えよう」と思っても、明日とか急にはなかなか変わらないと思います。「なぜ千日回峰行、こんな行をしたんですか?」と言われて、10代のときによく言っていた言葉は「世の中のため人のために、私は精一杯修行をしたい」ということでした。
ある日、そういう言葉をおそらく耳にした師匠が、お茶を飲んでいるときに笑い話で「坊さんなんていうのは、世の中のため人のためということはあんまり言わんほうがええな」と。
「世のため人のためというのは当たり前なんだ。まず自分自身がしっかりと心身ともに徳のある人間に成長すれば、自然と世の中のためになっている。『世のため人のため』という人間に限って、どこかで必ず自分のためになるような動きをしているものだ。だから人の為と書いて『偽り』と書くんじゃ」と。
そういう「世のため人のため」という大切な宝物の言葉は、心の奥底にしまって。そして、いろんな人との調和ですね。「自分だけが」ではなくて。自分自身もしっかりする。そして、しっかりした自分とみなさん、どんな人とでも相和して調和をしていく。この自律と協調性が大切だと思います。
志が強すぎて自我が強くなって孤立する場合がありますので、そこだけは十分に注意をしていただいて。「調和」という言葉を大切にしていただきたいと思います。
社会学界の泰斗ソローキン教授が指摘しております。
「一人の人間を強烈に愛することも出来ないくせに、ちょっと見たところ全人類を愛するふうをする多くの人々がある。彼らの人類愛は非利他的な、無関心に殆んど近い程稀薄なものであり、骨も折れず、且つ実践され得ないものである。熱もなく、冷もなく、彼らは自己主義者と低級な利他主義者との境界線を占めている。」
「人間は自分がその一員であるところの集団に対して進んで自己を捧げようとする忠誠心 Loyality が本能的基礎をもっていることを認め、今日では出来ることなら民族国家の国境を超越する新しい忠誠を生み出すことが最大の重要事であるが、そういうことが果たしてどれほど出来るであろうか。共産主義者は無理な方法である程度強制し得たが、それは非共産主義者が許すものでない。もっと外の方法に依らねばならぬ。それにはまず第一に各国の指導的立場の人々、次いで民衆が、長い再教育の過程を経ねばならない。しかしこういうことが起こるのはまだまだ前途遼遠である。キリストが汝己のごとく汝の隣人を愛せよといってからすでに一九〇〇年余になる。いったい今後なおどれだけ多くの歳月を経たならば、人々はこの言葉こそ確かな助言だったと考え始めるであろうか。」
一片の感傷や観念や、遊戯にすぎぬ気分的空想的人道主義はだめであります。今日の現実はそれに対して甚だしく冷厳であり、苛酷であります。まず自国、自郷、自家から愛することが出来ねばなりません。
つまらない人間も「世界のため、人類のため」などと言います。あれは寝言と変わらない。寝言よりももっと悪い。なにも内容がない。自分自身のためにも、親兄弟のためにも、ろくなことができない人間が、どうして世界のために、人類のために、なんて大口きけるか。
有名な話に、元武装共産党委員長田中清玄氏との出会いがある。雲水となった清玄氏に問う。
「入門の目的は何か」。清玄氏は胸を張って答える。「世のため人のためにと念願して修行したいからです」。老師はつぶやく。「奇特なことじゃ」。
三カ月後、同じやりとりがあって老師は烈火のごとく怒る。「まだ、分からんのか。わしは世のため人のために修行したことなど一度もない。皆、自分のためにやっているのや」。
清玄氏は、己のいのちをひたすら磨き続ける老師の姿が、そのまま他への布施行となっていることに気づいた。老師は語る。「一切が自分なのじゃ」。
神秀上座は善悪の葛藤を照見して、不断の除悪に人生の真諦を認めています。かつその偈がまだ心の直接の表現ではなくて、擬物に拘泥している点が著しい。人生の真相を善悪の葛藤に観て、悪を排して善を発揮して行こうとするのはいかにも結構な事である。結構は結構であるが(美則美矣)、まだ了悟したとは言えない。彼はまだその善悪なるものを解決していない。真性を徹見していない。果たせるかな弘忍は「これただ門外に到れるに過ぎぬ」として取りあげなかったのであります。
これに比べると、確かに後の若き盧行者(ろあんじゃ)の偈は一歩を進めています。彼は、善悪も畢竟、相対的な現相に過ぎない。本来、性の活動である事を了得し、外物の存在に拘泥する域をはるかに離れた表現に達しています。いはば、神秀は未だ二乗の域を脱せず、盧行者は大乗の域に突き進んだものです。弘忍は深くこの青年行者の悟境に許しました。
天上天下唯我独尊
#自灯明法灯明
お釈迦さまはガンジス川の一支流にある菩提樹の木の下でお悟りを開くんですが、そのときにかつての五人の仲間がいたんですね。彼らは鹿野苑といって、二百五十キロ離れたところにいたんですが、説法の対象として、その五人の仲間の所へ歩いて行くんです。その時に仲間は快く迎えないんですね。・・・しかし、実際、来るとね、そのお釈迦さまの品格に打たれて、結局、正しい作法で迎えるんです。・・・しかし、そうして迎えてもお釈迦さまの話を聞く気にはならない。その時にね、お釈迦さまが、「それならば、君たちは君たちと一緒にいたときの自分の顔が、こんなに輝いていたことを見たことはあるか」と、こう聞くんですよ。この輝きを見ろ、と。それで初めて五人のかつての修行仲間が納得して、お釈迦さまの話を聞き始めたという逸話が残っているんですね。それを初転法輪というんです。・・・過去の命はない、明日は来てみないとわからない。「ここ」が充実しない限り、一生、充実しないんですよ。「ここ」を中途半端に生きると一生が中途半端なんです。「ここ」でグチや泣き言をいってると、一生、グチや泣き言の連続。「いま」「ここ」「自分」が輝いていれば、一生、輝いている。
読経のすすめ:3分54秒(般若心経のみをお唱え致します。)
【慚愧と懺悔 六根清浄 ~全ての認識を清浄~】 不動護摩供 法話:陽人の随想録 須磨寺 #法話 #小池陽人の随想録 #仏教 #教え
弁護士になって驚いたのが、怒りやイライラをわかりやすく表に出したりあからさまに不機嫌になる弁護士、さらに非常識で幼稚な態度をとる弁護士がかなりいること。
— 海老澤美幸 ebisawa_miyuki (@ebisawa_miyuki) June 17, 2020
で、労働アドバイスしてるんだから笑える。
わかってはいましたが、学力はこのあたりとは全く無関係なんですよね、残念ながら。 https://t.co/KlM6oe5YUw
話し方からその人の文章を予測するより、文章からその人の話し方を予測する方がしやすい。いい文章はそのまま声にして読み上げていくとイメージとともにするする意味が入ってくる。そんな文章を書く人は、その話しも意味が分かるし理解しやすい。『ドン・キホーテ』の荻内勝之の翻訳などはその代表だ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) June 17, 2020
創文社さん、長年の出版活動おつかれさまでした。講談社さんの英断、敬意と感謝を申し上げます。
— 勁草書房編集部 (@keisoshoboedit) 2020年6月11日
また創文社さんで刊行されていた樋口陽一先生の『憲法第三版』は弊社で引き継ぎ、第四版として刊行させていただくことになりました。制作進行中です。刊行時期は未定ですがお待ちくださいませ。(ク) https://t.co/FGwRWJHvYq
【かっこいい】コクヨ、視覚の性質を利用した「白と黒で書くノート」発売https://t.co/ItLlbr14e2
— ライブドアニュース (@livedoornews) 2020年6月17日
灰色の紙に白と黒のペンで書き込むことで、視認性の良い、シンプルかつ鮮明なノートに仕上げることが出来るという。 pic.twitter.com/l57Ub4YCRo
#勉強法
【一時代の終焉】Adobe、改めてFlash Playerの終了を告知https://t.co/1CwFaTCmPX
— ライブドアニュース (@livedoornews) 2020年6月17日
今年12月31日をもって配布と更新を終了。その後はFlash Playerでのコンテンツ実行がブロックされるようになる。 pic.twitter.com/lS452a0I00